ダジャレの語源は洒落から江戸時代に生まれた駄洒落の歴史

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ダジャレの語源は、室町時代以降に使われ始めた「洒落」という言葉にあります。駄洒落は、その洒落の中でも出来の劣るものを指す語として江戸時代に生まれました。看板や判じ絵、洒落本といった形で庶民の暮らしに深く根付いていたのが、江戸という時代でした。

「布団が吹っ飛んだ」というような一言は、会議の空気を和ませることもあれば、「寒い」の一言で片付けられてしまうこともあります。評価が両極端に分かれるこの言葉遊びが、江戸の庶民文化と切っても切れない関係にあったことは、意外と知られていません。ダジャレという言葉そのものの成り立ちをたどりながら、江戸時代における洒落文化の広がりと、現代でオヤジギャグと呼ばれるようになった経緯までを整理していきます。

目次

洒落の語源は「晒る」と「戯る」の組み合わせに由来する

駄洒落を分解すると、核となるのは「洒落(しゃれ)」という言葉です。この語源には、同じ「さる」という読みを持つ二つの古語が関わっているとされています。一つは、日光にさらされて色があせるという意味の「晒る(さる)」、もう一つは、たわむれる・ふざけるという意味の「戯る(さる)」です。この二つが組み合わさり、あかぬけている、気の利いた言葉遊びをするといった意味へと転じていきました。読み方が「さる」から「しゃれ」に変化したのは、室町時代以降のことだとされています。

では、なぜ「洒落」という漢字が当てられたのでしょうか。心がさっぱりとして物事にこだわらない様子を表す漢語「洒落(しゃらく)」と、意味・音の両面で似ていたためという説が有力です。実際にこの漢字表記が定着したのは江戸時代前期以降とされており、洒落という文字面そのものが江戸の文化とともに育まれてきたことがうかがえます。

掛詞と洒落は成立時代も目的も別物である

平安時代の和歌には「掛詞(かけことば)」という技法があり、一つの言葉に二つの意味を重ねて詠み込む文学的技巧として知られています。この掛詞と洒落を同一視する説明を見かけることがありますが、両者は別のものです。平安時代には「洒落」という語も、その概念自体もまだ存在していませんでした。洒落という概念が成立するのは、掛詞よりもずっと後の江戸時代に入ってからです。掛詞が雅を志向するのに対し、洒落はあくまで笑いを目的とする言葉遊びであり、この目的の違いが両者を分けています。

駄洒落は洒落の中でも格落ちを意味する言葉として生まれた

続いて「駄洒落」の「駄」について見ていきます。「駄」という漢字にはもともと荷物を運ぶ馬を指す意味があり、そこから転じて「つまらないもの」「値打ちのないもの」といった意味を持つようになりました。「駄菓子」「駄文」「無駄」に見られる「駄」も、取るに足らないというニュアンスを添える接頭語として機能しています。

つまり駄洒落とは、字義通りに読めば「つまらない洒落」「へたな洒落」ということになります。洒落そのものは気の利いた言葉遊びとして評価される一方、その中でも出来の悪いもの、安易な語呂合わせに頼っただけのものを指して駄洒落と呼ぶようになったという成り立ちです。もともと貴族のたしなみとして育まれた洒落という高尚な言葉遊びの文化があり、その中でも通人でなくとも思いつけるような安直なものを揶揄する形で駄洒落という語が生まれたとも言われています。現代ではダジャレと洒落がほぼ同義で使われることも多いのですが、本来は洒落という大きな概念の中に、質の低いものとしての駄洒落が位置づけられていました。

江戸時代に花開いた洒落文化は看板から文芸まで多岐にわたった

洒落という漢字表記が定着したのが江戸時代前期以降であることからもわかるように、洒落という言葉遊びは江戸という時代と切り離せない関係にあります。ここでは、江戸時代に洒落・駄洒落がどのように庶民の暮らしに根付いていたのかを、具体的な事例とともに見ていきます。

洒落本は享保期から天保期にかけて遊里の機知を描いた

江戸時代には「洒落本」と呼ばれる文芸ジャンルが存在しました。洒落本とは、遊里を舞台に、客と遊女とのやりとりや、野暮な客の失敗談などを、洗練された「通(つう)」の精神を軸にコミカルに描いた小説群です。その源流は享保期(1716年から1736年)の『両巴巵言』(1728年)や『史林残花』といった、漢文調で江戸・吉原の風俗を描いた作品にまでさかのぼるとされています。

洒落本というジャンル自体が花開いたのは享保期半ばから天保期(1830年から1843年)にかけてで、遊里におけるひと時の遊びを、洒落と機知に富んだ会話文を中心に描き出しました。ここでいう洒落とは、遊里社会で培われた通という美意識を軸に、人間の滑稽な振る舞いを写実的に描くことを指しており、単なる駄洒落の羅列ではなく、当時の教養人たちをも唸らせる知的な言葉遊びの側面を持っていました。江戸の知識人たちの間でも広く愛読されたというから、洒落は低俗な娯楽としてのみ扱われていたわけではなさそうです。

判じ絵は答えの読みを一字ずつ絵で表す謎解き遊びだった

江戸時代の庶民文化を語るうえで欠かせないのが「判じ物(判じ絵)」です。日本語には同じ音でありながら異なる意味を持つ同音異義語が数多く存在しますが、判じ物はこの特性を利用し、絵が表している音を読み解いて答えを導き出すという、洒落を用いたクイズ形式の言葉遊びでした。判じ絵は江戸時代に庶民の間で広く楽しまれた浮世絵のジャンルの一つで、絵から連想される言葉を当てる謎解きとして親しまれていました。

判じ物は単なる暇つぶしのクイズにとどまりませんでした。名前や願い事、祝いの言葉など、本来であればストレートに伝えたい内容であっても、あえて絵に託して表現することで、押しつけがましさを避け、受け取る側に解釈の余白を残すという役割を果たしていたのです。縁起の良い意味を込めた判じ物も多く、コミュニケーションの作法としても機能していました。

判じ絵の面白さは、答えの読みを一字一字バラバラに分解し、その一文字ずつを絵で表現するという仕組みにあります。そのため、描かれている絵そのものと、最終的な答えの言葉との間には、意味の上でのつながりはまったくありません。たとえば、藻(も)が重なっている絵で桃(もも)を表したり、俵(たわら)の絵から「わ」の文字だけを抜いて読ませることで鱈(たら)を表現したりする問題が知られています。耳の絵に濁点を添えることでみみずと読ませるなど、仮名遣いや濁音・半濁音までも巧みに利用した趣向も見られました。手紙、地名、動植物、台所用品、当時人気の役者や力士の名前まで、実に幅広いテーマが判じ絵の題材として扱われており、幕末期以降には数多くの浮世絵師たちがこぞって趣向を凝らした判じ絵を描いたことで、そのバリエーションはいろは順に分類できるほど豊富なものとなりました。

地口行灯は浅草の伝法院通りに今も残る江戸の風物詩

江戸から明治にかけて流行した言葉遊びに「地口(じぐち)」と呼ばれるものがあります。地口とは、ことわざや慣用句、有名な文句などの音を利用し、それに似た音の別の言葉に置き換えて滑稽な意味を作り出す、駄洒落の一種です。この地口を絵と文字で表現し、行灯に仕立てたものが「地口行灯」で、現在も浅草の伝法院通りなどで見ることができます。祭礼の際に町中に飾られたこれらの地口行灯は、笑いとともに開運や縁起担ぎの意味合いも込められており、江戸庶民の生活に洒落が深く根付いていたことを物語っています。

看板や暖簾の語呂合わせは「御商売益々繁盛」を願うものだった

江戸時代の商家では、看板や暖簾に語呂合わせや洒落を取り入れる文化が広く見られました。古い商店などで「一斗二升五合」と大書された額を見かけることがありますが、これは単位の読み替えによる洒落です。五升は一斗の半分であることから「半升(はんじょう)」、一升桝二つで「升升(ますます)」、これらを組み合わせて「御商売益々繁盛」という縁起の良い言葉を表現しています。

餅屋の看板に木馬が置かれるという風習も、江戸後期の随筆類に記録が残っています。木馬が餅屋の看板になった理由は、荒馬(あらうま)とあら旨(あらうま、とても美味しいの意)を掛けた語呂合わせによるものだとされています。同様に、江戸前期の文献には、湯屋(銭湯)の入り口に矢を看板として掲げていたことも記されています。造り酒屋の軒先に杉の葉を球状に束ねてつるす酒林(さかばやし)も、杉を神木とする信仰に由来するとされ、こうした看板や意匠の一つひとつに、江戸の商人たちの洒落っ気と縁起担ぎの精神が込められていたことがわかります。

こうした事例からも見えてくるのは、江戸時代における洒落やダジャレが、単なる言葉遊びの域を超えて、商売繁盛の願いを込めた縁起担ぎや、庶民同士のコミュニケーションを円滑にする潤滑油として、日常生活のあらゆる場面に浸透していたという事実です。押しつけがましくなく、堅苦しさを笑いに変えて受け流す、そうした洒落の精神は、江戸っ子気質を語るうえでも重要な要素の一つだったといえます。

山東京伝と十返舎一九が洒落本と黄表紙を代表する作家となった

洒落本というジャンルを語るうえで欠かせないのが、江戸を代表する戯作者たちの存在です。中でも山東京伝(さんとうきょうでん、1761年から1816年、本名・岩瀬醒)は、洒落本を代表する作家の一人として知られています。京伝は18歳で画家としてデビューし、20歳頃から黄表紙(絵入りの娯楽本)を書き始めました。1785年に発表した『江戸生艶気樺焼』は黄表紙を代表する作品として名高く、1787年の『通言総籬(つうげんそうまがき)』は、遊廓の情景を綿密に描いた洒落本の代表作として位置づけられています。京伝の作品は江戸っ子の通や、物事の裏を穿つ観察眼を意味する「うがち」を主題としており、洒落という言葉遊びが単なる語呂合わせにとどまらず、当時の社会風俗を映し出す文芸表現にまで発展していたことがわかります。

もう一人、洒落本・黄表紙・滑稽本・合巻と幅広いジャンルで活躍したのが十返舎一九(じっぺんしゃいっく、1765年から1831年、本名・重田貞一)です。1802年に発表した『東海道中膝栗毛』初編が大好評を博したことで文名を確立し、以降1822年まで続編を書き継ぎ、当時の読者から熱狂的な支持を受けました。弥次さん喜多さんの珍道中を軸に、洒落と滑稽味あふれる会話で読者を笑わせるこの作品は、江戸の言葉遊び文化が生んだヒット作の一つといえるでしょう。こうした戯作者たちの活躍によって、洒落本・黄表紙は当時の出版文化を牽引する存在となっていきました。

落語の地口落ちは駄洒落で笑わせる型として最も数が多い

江戸の言葉遊び文化は、落語という話芸の中にも受け継がれています。落語の結末部分は「落ち(オチ)」または「サゲ」と呼ばれ、いくつかの型に分類されますが、その中でも駄洒落によって笑いを生む型を「地口落ち(じぐちおち)」と呼びます。地口落ちは、落語の落ちの中でも最も数が多いとされる型で、上方(大阪)では「にわか落ち(仁輪加落ち)」とも呼ばれています。物語の最後に、それまでの話の流れとは一見無関係な言葉を駄洒落的に持ち出し、聞き手の意表を突いて笑わせる、という構造を持っています。

一方、江戸の言葉遊びには「なぞかけ」と呼ばれる形式も存在します。これは、一見関係のない二つの物事の間に共通点を見出し、「〇〇とかけて△△と解く、その心は」という形式でクイズ的に洒落を披露するもので、複数の対象を比喩的に結びつける点で、単純な音の類似を利用する地口落ちとは性質が異なります。なぞかけは現代でも大喜利などの形式で親しまれており、江戸由来の言葉遊びが形を変えながら生き続けている例といえるでしょう。落語という庶民の娯楽の骨格そのものに駄洒落的な発想が組み込まれていたという事実は、洒落が江戸の文化にいかに深く根を下ろしていたかを物語っています。

川柳と狂歌も洒落と同じ言語感覚を土台にしていた

江戸時代には、洒落や語呂合わせを軸にした文芸として、川柳や狂歌も庶民の間で大流行しました。川柳は五七五の定型に世相風刺や機知を込めたものであり、狂歌は和歌の形式を借りながら滑稽さや洒落っ気を前面に出した作品群です。これらは洒落本や判じ物と同一のものではありませんが、いずれも同音を利用した言葉の掛け合いや、機知に富んだ発想の転換を土台にしている点で、駄洒落と同じ言語感覚を共有していたと考えられます。江戸時代という時代そのものが、識字率の向上や出版文化の発展とあいまって、こうした言葉遊びが庶民レベルにまで広く行き渡る土壌を持っていたのです。

現代の教育現場ではダジャレが語彙力や思考力を育むと評価されている

「寒い」「オヤジギャグ」といった否定的な文脈で語られがちな駄洒落ですが、教育・育児の観点からは、ポジティブな効果が指摘されています。ダジャレを通じて言葉の響きや意味の違いに触れることは、子どもの言語感覚を育むうえで有効だとされ、表現力・語彙力・思考力・発想力の向上や、コミュニケーションの促進、脳の活性化といったメリットが挙げられています。親子で一緒にダジャレを楽しむことが、会話のきっかけを生み、子どもの語彙力や自己肯定感を育むことにもつながるという指摘もあります。

ダジャレをはじめ、しりとりや回文といった言葉遊び全般は、単語の音と意味の仕組みを理解し始める4歳から5歳頃の子どもが楽しめるようになる遊びだとされています。日常生活の中で面白い言葉の組み合わせを探す習慣を持つことで、自然とユーモアのセンスが磨かれ、物事を多角的に観察する力も養われていくといいます。江戸時代に庶民の遊び心として花開いた洒落・駄洒落の文化は、時代を超えて、現代では子どもの言語発達を支える教育的なツールとしても見直されつつあります。

オヤジギャグが寒がられる理由はボケとツッコミ型の笑いの定着にある

時代が下り、現代の日本において駄洒落という言葉から真っ先に連想されるのは、いわゆる「オヤジギャグ」でしょう。中高年男性が発する、やや強引な語呂合わせのギャグを指すこの言葉には、しばしばネガティブなイメージがつきまといます。なぜ現代では、江戸時代のように大らかに受け入れられるどころか、「寒い」「スベる」といった反応を招きやすくなってしまったのでしょうか。

一つの要因として指摘されているのが、お笑いの様式そのものの変化です。テレビのバラエティ番組を通じて、空気を読み、会話の流れを壊さないボケとツッコミのセット構造による笑いが、現代日本人の笑いの基準として広く定着しました。その結果、周囲の文脈を無視して唐突に会話を切ってしまう性質を持つダジャレが、煙たがられるようになったと考えられています。ダジャレが寒いと感じられてしまう背景には、オチの予測可能性の高さ、発想における努力の欠如という印象、期待していた笑いの質との落差、発言者自身が時代遅れに見えてしまうリスクなど、複数の要因が絡み合っているようです。

茂木健一郎氏によれば記憶力と前頭葉の働きが50代前後で逆転する

脳科学の観点からも、なぜ中高年になるほどダジャレを口にしやすくなるのかについての知見が示されています。脳科学者の茂木健一郎氏の見解によれば、言葉同士の連想に関わる記憶力は30代から高まり、50代でピークを迎える一方、感情や衝動をコントロールする脳の前頭葉の働きは20代でピークに達したのち、加齢とともに徐々に萎縮していくといいます。この二つの変化が重なる50代前後になると、脳の暴走に近い状態が起こりやすくなり、思いついた駄洒落をつい口に出してしまう、という現象が生じるのだと説明されています。

また、駄洒落が生まれる仕組みそのものにも脳の働きが関わっています。言葉に関する記憶や情報が蓄積されている脳の部位「側頭連合野」に、ある言葉の情報が伝わると、そこに蓄積されている他の言葉と音の面で響き合い、反応することで駄洒落が誕生する、という理解が示されています。駄洒落を発想すること自体は、脳の中で言葉同士が豊かに結びついている証でもあり、必ずしも悪いことだけとは言い切れなさそうです。

近年では、こうした従来型のオヤジギャグとは一線を画す「ネオダジャレ」と呼ばれる潮流も、若い世代を中心に注目を集めているとされています。SNSやインターネットスラングと結びつきながら、言葉遊びとしてのダジャレは形を変えつつ、今もなお日本語文化の中に息づいています。

日本語にダジャレが生まれやすいのは音節がおよそ100前後しかないため

そもそも、なぜ日本語という言語は、これほどまでにダジャレ・駄洒落という言葉遊びを生み出しやすいのでしょうか。その根本的な理由は、日本語の音の少なさにあるとされています。日本語の音の最小単位である音節はおよそ100前後しかないのに対し、英語の音節は3000以上にのぼるといわれています。より具体的には、日本語のかな文字は母音を含めて73文字ほどあり、「オ」と「ヲ」、「ズ」と「ヅ」のように実質同じ発音のものをまとめると、実際に使われている音の種類はさらに少なく68程度にまで絞られるとされています。使える音のパターンが限られているということは、異なる意味を持ちながら同じ響きを持つ言葉、すなわち同音異義語が生まれやすくなるということでもあります。

加えて、明治時代以降、西洋から流入した新しい概念や事物を翻訳するために大量の和製漢語が造られたことも、同音異義語の増加に拍車をかけたとされています。漢字が持つ意味の側面ばかりに注目し、音の重複についてはさほど考慮されなかった結果、日本語には同音異義語が溢れることになったという指摘もあります。こうした音韻的な特徴があったからこそ、江戸時代の庶民は看板や暖簾、判じ絵や地口といった形で、日常のあらゆる場面に洒落や語呂合わせを織り込むことができたのでしょう。

英語のpunと日本語の駄洒落は社会的な受け止め方が異なる

英語をはじめとする他言語にも、駄洒落に類する言葉遊びは存在します。英語では「pun(パン)」と呼ばれ、複数の意味や似た音を利用してユーモラスな二重の意味を作り出す表現として親しまれています。ただし、英語のpunと日本語の駄洒落との間には、いくつか興味深い違いがあります。まず社会的な受け止められ方が異なり、日本語では字面をひっかけただけの安易な駄洒落が「オッサンくさい」「寒いネタ」としてネガティブに受け止められがちであるのに対し、英語のpunにはそうした否定的な先入観は特に強くないとされています。形式面では、英語のダジャレには音を掛け合わせるタイプと、一つの単語が持つ二つの意味を利用するタイプの二種類があり、日本語の駄洒落に比べて韻を踏むタイプが多いという特徴も指摘されています。punの多くはその言語の音の響きに強く依存しているため、他言語への翻訳がきわめて難しいという共通点があり、この点は日本語の駄洒落にもそのまま当てはまるといえるでしょう。

ユーモアのセンスの個人差の68パーセントは知能で説明できるとする研究がある

駄洒落は「安易な思いつき」というイメージで語られがちですが、ユーモアと知性の関係を扱った研究からは、また違った側面も見えてきます。ある研究によれば、ユーモアのセンスの個人差のうち68パーセントは知能によって説明できるとされ、一般的な知識が豊富で言語的な推論力の高い子どもほど、ユーモアにあふれた発想をする傾向があることが示されています。

ユーモアが生まれる認知的な仕組みとしては、相手の脳が想定していた話の流れを別の文脈にすり替えるという構造が指摘されており、このすり替えを成立させるためには、一つの物事を複数の角度から同時に捉える力、すなわち高度な言語能力と文脈理解力が必要になるといいます。駄洒落もまた、ある言葉の音を別の意味・別の文脈へと瞬時にすり替えるという点で、この構造と重なり合っています。とっさに口をついて出る駄洒落の裏には、複数の言葉のつながりを同時に処理する、それなりに高度な脳の働きが隠れているといえるでしょう。江戸の判じ物や地口が庶民の頭の体操として親しまれていたことを踏まえると、駄洒落を単なる寒いギャグとして切り捨ててしまうのは、いささかもったいない話かもしれません。

駄洒落は江戸庶民の遊び心を今に伝える言葉遊びである

ダジャレを語源からたどっていくと、室町時代以降に生まれた洒落という言葉が、江戸時代前期以降に現在の漢字表記へと定着し、その中でも出来の劣るものを指す駄洒落という言葉が派生していった、という流れが見えてきます。しばしば平安貴族の掛詞と混同されがちですが、洒落という概念そのものは江戸時代に成立したものであり、掛詞とは目的も性質も異なります。

そして江戸時代は、洒落本という文芸ジャンル、判じ物・判じ絵という謎解き遊び、地口行灯という庶民の風物詩、さらには商家の看板や暖簾に刻まれた語呂合わせに至るまで、あらゆる場面で洒落や駄洒落が花開いた時代でした。単なる言葉遊びにとどまらず、縁起担ぎや商売繁盛の願い、堅苦しさを笑いに変える処世術としても機能していたのです。山東京伝や十返舎一九のような戯作者の手による洒落本、落語の地口落ちやなぞかけ、そして数百点にも及んだという判じ絵のバリエーションを見渡すと、洒落・駄洒落が江戸の身分や職業を問わず、庶民から知識人までを巻き込む娯楽であったことが浮かび上がってきます。

現代では「寒い」「オヤジギャグ」といった否定的な文脈で語られがちなダジャレですが、その根底に、江戸庶民が育んできた大らかな遊び心という文化的土壌があったことを知ると、何気ない駄洒落の一つひとつも、また違った味わいを持って感じられるのではないでしょうか。

洒落本を書き上げた山東京伝や十返舎一九といった戯作者たちの筆致にも、判じ絵に趣向を凝らした無数の浮世絵師たちの遊び心にも、寄席で地口落ちを披露した噺家たちの話芸にも、商家の看板に語呂合わせを忍ばせた名もなき商人たちの機転にも、共通して流れているのは言葉の音を楽しむという素朴な感性です。同音異義語を生みやすい日本語という言語の特性がこの感性を育む土壌となり、江戸という庶民文化が花開いた時代が、その土壌に豊かな実りをもたらしました。駄洒落を口にするとき、私たちは何百年も前から受け継がれてきた日本語の遊び方の作法を、江戸の庶民たちと同じ感覚で、現代に呼び起こしているのかもしれません。次に誰かが駄洒落を口にしたときには、寒いの一言で片付けてしまう前に、その背後にある江戸から続く歴史に、少しだけ思いを馳せてみるのも悪くないでしょう。

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