カルピスという名前は、栄養素のカルシウムを示す「カル」と、仏教の五味思想に登場するサンスクリット語「サルピス」から取った「ピス」を組み合わせて誕生しました。看板コピーの初恋の味は、大正11年に文学寮時代の後輩から提案を受け、清純さを表す言葉として新聞広告に採用されています。この飲み物は昭和の戦時下でも軍需物資に認定されて製造が続き、そのまま家庭の食卓に定着していきました。創業者の三島海雲が内モンゴルで体験した出来事や、戦争による生産中止、パッケージデザインの見直しといった出来事も踏まえながら、発売から100年を超えるカルピスの歩みを、名前の由来から順に整理します。

カルピスの語源はカルシウムとサンスクリット語のピスの組み合わせ
カルピスという名前は、二つの言葉のかけ合わせで作られています。前半の「カル」は、牛乳などに含まれる栄養素であるカルシウムから取られたものです。後半の「ピス」は、仏教用語の五味のうち「熟酥味」を意味するサンスクリット語「サルピス」に由来しています。
五味とは、牛や羊の乳を精製する過程における五段階の味わいを表す仏教の考え方で、最高位に位置づけられるのが「醍醐味」、その次に位置するのが「熟酥味」です。当初は最高位を表す「サルピルマンダ」から「ピル」を取り、「カルピル」と名付ける案もあったといいます。ただ言いづらいという理由から見送られ、次点にあたる「サルピス」から「ピス」を取って「カルピス」と命名するに至りました。
仏教用語が採用された背景には、創業者である三島海雲の生い立ちが関係しています。三島は寺の住職の息子として生まれ、13歳のときに得度を受けた経歴を持っています。得度とは、出家して僧侶となるための儀式のことです。幼少期から仏教の教えに親しんでいた三島にとって、サンスクリット語由来の言葉を商品名に取り入れることは、ごく自然な発想だったのでしょう。
創業者三島海雲は内モンゴルの酸乳との出会いから開発を決意した
カルピスを生み出した三島海雲は、1878年に大阪府で生まれました。彼の人生を大きく変えたのは、渡航先である内モンゴルでの体験です。25歳のとき中国に渡った三島は、モンゴルで緬羊の改良事業に着手しますが、事業は思うように進まず、慣れない現地生活の中で体調を崩し、一時は瀕死の状態にまで追い込まれました。
そんな三島を救ったのが、モンゴルの遊牧民たちが日常的に口にしていた酸乳、つまり発酵させた乳製品でした。すすめられるまま酸乳を飲み続けたところ、長旅と病ですっかり弱っていた胃腸の調子が整い、体も頭もすっきりと回復していったといいます。この体験に強い衝撃を受けた三島は、いつか自分もこの酸乳のような、人々の健康に役立つ飲み物を日本で作りたいと考えるようになりました。
1915年に帰国した三島は、内モンゴルでの体験をもとに、乳酸菌を活用した食品の事業化に取り組みます。試行錯誤の末、1919年7月7日、七夕の日に、日本初の乳酸菌飲料としてカルピスを発売しました。七夕にちなみ、パッケージの水玉模様は天の川に輝く星々や流星をかたどったものだとされています。この水玉模様は、後の時代に何度かデザインが見直されながらも、カルピスというブランドを象徴する意匠として現在まで受け継がれています。
初恋の味は大正11年に後輩の提案で新聞広告に採用された
初恋の味というキャッチコピーが世に出たのは、大正11年、新聞広告への採用が決まった際のことでした。カルピスを語るうえで欠かせない言葉であり、由来をたどると、三島海雲が文学寮時代を過ごした後輩の発案にたどり着きます。
三島は当初、この提案に難色を示していました。初恋という言葉を商品の味の形容に使うことが、当時の時代感覚からすると大胆すぎると感じたためです。これに対して後輩は、カルピスの味を聞かれたら初恋の味だと答えればいい、初恋とは清純で美しいものだと三島を説得しました。この言葉に納得した三島は、最終的にキャッチコピーの採用を決めています。
大正11年に広告での使用が始まると、世間の反応は穏やかなものばかりではありませんでした。大阪では警察から、色恋沙汰を連想させる表現は控えるべきだとして、ポスターの自粛を求められる事態にまで発展したといいます。それでも、当時広がりつつあった自由思想やロマン主義的な空気が追い風となり、初恋の味という言葉は若者たちの心をつかんでいきました。大正時代の自由思想やロマン主義は、個人の感情表現をそれまでより重んじる大正ロマンと呼ばれる風潮の一部で、恋愛や青春を肯定的に語る土壌となっていました。こうして初恋の味は、カルピスを象徴する代名詞として定着していきます。
昭和の戦時下でカルピスは軍需物資として生産を続けた
大正時代に生まれたカルピスは、昭和に入ってからも発展を続けているように見えました。しかし時代は次第に戦争の影を色濃くしていきます。1937年に日中戦争が始まると、翌1938年には国家総動員法が公布されました。国家総動員法とは、戦争の遂行にあたって国内の人的・物的資源を政府が統制できるようにした法律です。この統制のもとで、カルピスのような嗜好品は不要不急のものとして厳しい制約を受けるようになりました。不要不急とは、緊急性が低く、生活に必須ではないと判断された物資を指す言葉です。
さらに1941年に太平洋戦争が始まると、原料や資材への統制は一段と厳しさを増し、カルピスは生産の中止を余儀なくされます。会社の経営そのものが大きな危機に直面していました。
ところが、ここで事態を大きく変える出来事が起こります。カルピスが軍需物資として認定されたのです。軍需物資とは、軍隊の作戦行動や国民生活の維持に必要と政府が認めた物資のことです。この認定により、戦時下という厳しい状況の中でも製造は続けられ、国民の前から完全に姿を消すことはありませんでした。栄養補給や兵士の体力維持といった観点から、乳酸菌飲料としての価値が評価されたことがうかがえます。
戦争の終盤には、さらなる試練が待ち受けていました。1945年5月の空襲により、カルピス社は生産設備を焼失しています。終戦後の混乱期には経営状態が大きく悪化し、会社の存続そのものが危ぶまれる局面もあったといいます。それでもカルピスは幾度もの経営危機を乗り越え、戦後の復興期を経て、国民に親しまれる飲み物として復活を遂げました。
一次発酵と二次発酵によるカルピス菌の製法が味を支える
カルピスの味わいは、国産の生乳を原料に、一次発酵と二次発酵という二段階の工程を経て作られています。まず生乳から脂肪分を取り除いた脱脂乳に、カルピス独自の「カルピス菌」を加えて一次発酵を行います。ここで乳酸菌が働き、洗練された酸味のある味わいが生まれます。次に、一次発酵でできたカルピス酸乳に砂糖を加えて二次発酵を行うと、酵母の働きによって特有の芳醇な香りが生まれます。
このカルピス菌は、乳酸菌と酵母からなる微生物の集合体で、大正時代に乳酸菌の研究を行っていた際に偶然発見されたものだといいます。以来100年以上にわたり継代培養という形で受け継がれ、現在の製造にも使われ続けています。継代培養とは、微生物を絶やさないよう定期的に新しい培地へ植え継いでいく培養方法のことです。長い歴史を通じて製法の根幹を変えずに守り抜いてきたことが、カルピスの味わいを一貫させてきた大きな理由といえるでしょう。
戦後は赤札包カルピスのヒットが経営再建の力になった
戦後の混乱を乗り越える過程で、カルピスの業績回復に大きく貢献したのが、通称「赤札包カルピス」と呼ばれる商品のヒットでした。物資が乏しい戦後の時代にあって、手に取りやすい形での再展開が功を奏し、カルピスは徐々に国民の生活の中に戻っていきました。こうした地道な取り組みの積み重ねが、後の高度経済成長期における家庭の定番飲料としての地位確立へとつながっていきます。
昭和の家庭において、カルピスは特別な存在でした。瓶入りの原液を水や牛乳で薄めて飲むというスタイルは、来客時のもてなしや、夏の縁側での涼といった、昭和ならではの生活風景と分かちがたく結びついています。子どもたちにとっては、母親や祖母が水玉模様の瓶からカルピスを注いでくれる瞬間そのものが、記憶に刻まれていたことでしょう。
平成にはカルピスウォーターが発売と同時に大ヒットした
カルピスは平成に入ってからも新たな商品展開を続けました。下の表は、主な派生商品と発売時期をまとめたものです。
| 商品名 | 発売年 | 特徴 |
|---|---|---|
| カルピスソーダ | 1973年 | 炭酸水で希釈したタイプ |
| フレーバー追加 | 1979年 | オレンジやグレープフルーツを展開 |
| カルピスウォーター | 1991年2月1日 | 粒子径を約8分の1に微細化、窒素ガス封入 |
| レモン味 | 1993年 | フレーバーの追加展開 |
| 桃とカルピス | 1998年 | フルーツカルピスシリーズ初のカロリーオフ製品 |
1991年2月1日、当時のカルピス食品工業株式会社からカルピスウォーターが発売されました。「遅くなってごめん」というキャッチフレーズとともに登場したこの商品は、発売と同時に大ヒットを記録し、カルピスウォーターしか置かれていない自動販売機が登場するほどの人気を集めています。同年の日経トレンディヒット商品では第1位に選ばれました。この背景には、粒子径を従来の濃縮タイプの約8分の1にまで細かくし、鮮度を保つために窒素ガスを封入するという技術的な工夫があったといいます。カルピスウォーターが主役の座を確立したことで、それまで人気を集めていたカルピスソーダはやや存在感を弱めることになりました。
三島海雲は1962年に三島海雲記念財団を設立し学術研究を支えた
カルピスを生み出した三島海雲は、事業家としての顔だけでなく、社会貢献にも力を注いだ人物として知られています。1962年、三島は自身の全資産を投じて研究助成のための財団を設立しました。これが現在の三島海雲記念財団です。
この財団は、自然科学および人文科学に関する教育や研究を援助・奨励し、学術・文化の向上や国民生活の充実に寄与することを目的として設立されました。三島の生涯の根底には仏教精神があり、学生時代から国利民福、すなわち国の利益と人々の利益を第一に考える姿勢を貫いていたと伝えられています。カルピスという名前そのものに仏教用語を採用したエピソードとも通じる、一貫した精神性がうかがえます。
三島海雲記念財団は現在も活動を続けており、時代や環境の変化に応じて助成対象分野を見直しながら、日本の学術研究の発展に寄与しています。近年では人文科学部門の助成対象を、アジアに関する人文社会科学諸分野の学術研究とするなど、新たな研究領域への支援も広げているといいます。一杯の飲み物から始まった三島海雲の事業は、その後の日本の学術・文化の発展にも静かに貢献し続けているのです。
海外ではカルピコという名称で親しまれている
カルピスの歴史を語るうえで、海外展開にまつわるエピソードも見逃せません。カルピスは英語圏において、「カルピコ」という名前で販売されています。この名称変更の背景には、意外な理由がありました。
アメリカの販売業者から、カルピスという発音が英語話者にとって好ましくない響きに聞こえるとの指摘があり、名前を変更すべきだという主張がなされたのです。当時の社長は当初、この提案に反対する姿勢を示していました。しかし、実際に消費者から気持ちが悪いという声が相次いだことを受け、最終的に欧米向けの名称としてカルピコが誕生しています。カルピコの名で販売されているのは、北米、イギリス、インドネシアなど、主に英語圏の国々です。
パッケージの商標イラストは1989年に見直された
カルピスのパッケージやロゴのデザインも、時代とともに変化を重ねてきました。かつての商標には、パナマ帽をかぶった男性がストローでグラス入りのカルピスを飲んでいる姿を図案化したイラストが使われていた時期があります。しかし1989年、このイラストが差別思想につながりかねないとの指摘を受けたことをきっかけに、パッケージのリニューアルに合わせてこのマークは使用されなくなりました。
この使用中止の背景には、1988年に発足した「黒人差別をなくす会」という私設団体からの指摘があったとされています。時代の価値観の変化とともに、企業が自社のブランドイメージを見直していく過程を示す出来事だったといえるでしょう。
一方で、七夕の夜空をイメージした水玉模様のデザインは、時代を超えてカルピスというブランドの根幹を支え続けています。パッケージ全体のトーンやロゴの書体は昭和から平成、令和へと変遷を重ねてきましたが、水玉模様という基本的なモチーフは大きく変わることなく受け継がれている点も興味深いところです。
カルピスまんが劇場は昭和の茶の間でアニメ文化を育てた
昭和の家庭にカルピスが深く浸透していった背景には、テレビCMを通じた広告展開が大きく関わっています。カルピスのテレビCMは1959年から放映が始まり、長嶋茂雄、吉永小百合、八千草薫といった、当時の国民的スターたちが起用されました。
さらに1970年代には、「カルピスまんが劇場」や「カルピスこども劇場」といった一社提供番組が放映され、多くの名作アニメを世に送り出す原動力となっています。『フランダースの犬』や『アルプスの少女ハイジ』といった、今なお語り継がれる作品の数々が、カルピスの一社提供によって生まれたことをご存じの方も多いでしょう。日曜夜の茶の間でテレビの前に家族が集まり、カルピスのCMとともにアニメを楽しんだという昭和の記憶は、今も多くの人々の心に残っています。
こうした番組提供は、単なる商品の宣伝にとどまらず、子どもたちの情操教育や家族団らんの時間そのものを支える存在として、カルピスというブランドのイメージをより豊かなものにしていきました。時代が平成、令和へと移り変わってからも、2005年にカルピスウォーターのイメージキャラクターへ起用された長澤まさみが、その後もブランドCMに継続して出演するなど、カルピスは常にその時代を象徴する顔とともに歩み続けています。
アサヒ飲料との経営統合で出荷量は10年で約1.5倍に伸びた
平成から令和へと時代が移る中で、カルピスを取り巻く経営体制にも大きな変化がありました。2015年、カルピスとアサヒ飲料が経営統合へと向かう転機を迎え、2016年1月から経営統合が始まりました。これにより、生産・物流・販売の体制が共有される形となり、カルピスはアサヒグループの一員として展開を進めることになります。
ブランドとしてのカルピスは、「カラダにピース」というキャッチコピーのもと、自然な発酵製法と健康効果を前面に打ち出したブランディング戦略を展開してきました。その結果、出荷量はこの10年ほどで約1.5倍にまで増加し、2018年には過去最高の実績を記録しています。
現在では、飲料としてのカルピスだけでなく、機能性表示食品である「プラス カルピス 内脂サポート」といった機能性食品や、乳酸菌技術を活用した健康食品の開発にも力を入れています。加えて、カルピスの製造過程で分離されるクリームから作られる「カルピスバター」といった、原液のうまみを別の形で活かした商品展開も行われています。大正時代に一つの発酵飲料として誕生したカルピスは、100年以上の時を経た今、飲料の枠を超えたブランドへと広がりを続けているのです。
カルピスが100年以上愛され続ける理由は製法とコピーの両立にある
カルピスは1919年の発売から数えて、すでに100年を超える歴史を刻んでいます。戦争による生産中止、空襲による設備の焼失、戦後の経営危機など、幾度も存続の危機に直面しながらも、そのたびに立ち直りを見せてきました。この背景には、乳酸菌飲料としての基本的な製法を大きく変えることなく守り続けてきた姿勢と、初恋の味という時代を超えて響くキャッチコピーの存在が大きく関わっているといえるでしょう。
初恋の味という言葉は、発売から100年以上が経過した今なお、多くの日本人にとってカルピスを象徴するフレーズとして記憶されています。清純で美しいものという後輩の言葉どおり、この表現は世代を超えて人々の共感を呼び続けてきました。単なる商品のキャッチコピーという枠を超え、日本の広告史に残る一例として語り継がれている点も注目に値します。
振り返ってみると、カルピスという一つの飲み物の歩みの中に、大正から昭和、そして現代に至るまでの日本社会の変遷が凝縮されていることがわかります。水玉模様の瓶を手に取るとき、そこには清涼飲料水としての価値だけでなく、100年以上にわたって積み重ねられてきた物語が息づいています。








