「あいうえお」から始まる五十音図を確立したのは、平安時代後期の天台宗の僧侶・明覚(みょうかく)です。寛治七年(1093年)に著した『反音作法』のなかに、現存する最古の完成度の高い五十音図が残っています。空海が発案したという話を耳にすることがありますが、これは江戸時代に広まった俗説で、年代の順序が合わず史実としては成立しません。この記事では、明覚説を軸に、空海説や吉備真備説を含めた発案者にまつわる諸説を一覧で整理し、母音がなぜ「あいうえお」の順に並んでいるのかも合わせて見ていきます。

あいうえおの発案者は明覚、1093年の反音作法に最古の五十音図
五十音図の発案者を国語学・音韻学の分野で問われたとき、まず名前が挙がるのが明覚上人です。明覚は寛治七年(1093年)、38歳のときに著した『反音作法』のなかで、仮名を用いた反切(はんせつ)の方式を説明し、現存最古とされる整った形の五十音図を示しました。反切とは、漢字の発音を別の二字の漢字の組み合わせで示す中国由来の注音法です。日本語には梵字のように子音だけを単独で表記する文字がないため、明覚はこれを仮名で応用する目的で、同じ子音を持つ仮名を同じ行に、同じ母音を持つ仮名を同じ段にまとめる表を作りました。当時はこれを「仮名反」と呼んでいたそうです。
明覚の生没年は天喜四年(1056年)から嘉承元年(1106年)とされています。号は温泉房、あるいは唯心房。比叡山延暦寺に入って覚厳という僧に師事し天台教学を学んだのち、かつて比叡山に五大院を開いた安然という高僧の学統を慕って悉曇学(しったんがく)を修めました。悉曇学とは、サンスクリット語を表記する梵字の音韻体系を研究する学問で、仏教経典を正しく読誦するために平安時代の僧侶たちが学んでいたものです。
明覚はのちに加賀国、現在の石川県加賀市にあたる山代温泉に移り住み、温泉寺の住職を務めながら悉曇学の研究を続けました。『反音作法』の奥書には「加州隠者明覚」と自ら記しており、加賀の地に隠棲する学僧としての立場を明らかにしています。地元の石川県加賀市では、明覚は「あいうえお五十音図の創始者」として顕彰されていて、山代温泉は「日本語『五十音図』発祥の地」を掲げています。温泉寺での活動を通じて、明覚は『梵字形音義』『四家悉曇記』『悉曇要訣』『悉曇大底』『悉曇秘』『梵語抄』など数多くの悉曇学関連の著作を残し、没後は悉曇学の祖として仰がれる存在になりました。
明覚以前の音図があり、五十音図は一人の発明ではなく集大成
明覚がゼロから五十音図を発明したわけではありません。現存する資料のなかで最も古い音図とされるのは、明覚の『反音作法』よりさらに古く、平安時代中期に成立した『孔雀経音義』(長保六年から万寿年間、1004年から1027年頃)や、『金光明最勝王経音義』(承暦三年、1079年)に付された音図です。
これら最古期の音図では、段の並びが現在の「あいうえお」順ではなく、「いおあえう」という異なる順序でした。五十音図は最初から現在の形で成立したのではなく、複数の学僧の手を経て徐々に整理され、明覚の時代になってようやく「あいうえお」の段順と「あかさたな」の行順が安定した体系として確立されたことになります。国語学では明覚を、先行する音図の蓄積の上に立って整った形の五十音図を完成させた集大成者と位置づけるのが、実態に近い評価です。
空海説は江戸時代に広まった俗説で、年代が100年以上ずれている
「空海(弘法大師)がいろは歌や五十音図、さらには平仮名そのものを作った」という話は、江戸時代を通じて庶民のあいだに広く信じられていました。ですがこの説は史実としては成立しません。空海が没したのは835年ですが、いろは歌が成立したのは早くとも10世紀末から11世紀にかけてで、空海の時代より100年以上あとになります。空海が生前に存在しなかった文書を作ることは、当然ながらできません。
なぜこの俗説がこれほど広まったのでしょうか。理由のひとつは、空海が唐に渡って学び、書の達人として名を残していたこと、悉曇学や声字(音と文字)の思想において先駆的な業績を残していたことにあります。空海は唐から梵字・悉曇に関する文献を数多く日本に持ち帰り、『梵字悉曇字母釈義』などの著作を通じて、日本における悉曇学の礎を築いた人物の一人でした。ともに唐に渡った留学僧たちは「悉曇の八家」とも呼ばれ、空海もその一人に数えられています。
つまり空海は、五十音図そのものを作ったわけではありませんが、五十音図の理論的な土台になった悉曇学を日本に本格的にもたらした人物ではありました。悉曇学における空海の存在感の大きさから、後世の人々が「文字や音韻の体系的な整理は空海の功績」と結びつけて語り継いだ結果、空海より後の時代に成立したいろは歌や五十音図までもが空海の作とされていったと考えられます。平安時代末期から明治時代初めにかけて、いろは歌が子供の手習いの手本として広く使われたことも、この俗説を後押ししたようです。
空海の没後、平安時代前期の元慶四年(880年)には、天台宗の僧・安然が、空海ら悉曇の八家が持ち帰った文献を整理・体系化した大著『悉曇蔵』を著しています。明覚はこの安然の学統を慕って悉曇学を学んだ人物でした。空海に始まり安然を経て明覚に至る、二百年以上にわたる悉曇学研究の積み重ねの末に、五十音図という体系が完成した系譜をたどることができます。
吉備真備発案説は片仮名の伝説で、五十音図との直接の裏付けはない
奈良時代の学者・政治家である吉備真備(きびのまきび)が片仮名を発明したという話も古くから知られています。真備は遣唐使として唐に渡り、儒学や天文学、音楽、兵学など幅広い知識を日本に持ち帰った当代随一の知識人でした。文字の発明者として名前が挙がりやすい人物ではありますが、五十音図あるいは片仮名の考案と吉備真備を直接結びつける確実な史料は見つかっていません。これも後世に付会された話の域を出ないというのが現在の見方です。
平仮名にせよ片仮名にせよ五十音図にせよ、特定の一人の天才が発明したというより、奈良時代から平安時代にかけて、万葉仮名の草書化(平仮名の成立)や、漢文訓読のための省略記号の発達(片仮名の成立)、仏教僧による悉曇学研究(五十音図の成立)といった、複数の異なる文脈での長い変遷の積み重ねの末に、自然発生的かつ集団的に形作られていったとみるのが、国語学における主流の理解です。明覚はそのなかでも五十音図という枠組みを整理し確立した功績者として特筆される人物で、彼一人が無から生み出したわけではないというニュアンスを込めて「確立者」「大成者」と表現されることが多くなっています。
あいうえおの並びは梵字の母音配列がもとになっている
「あいうえお」という母音の並び順は、日本語独自に決められたものではなく、悉曇学が依拠していたインドの梵字の字母表の配列順を踏襲したものです。梵字の字母表では冒頭にまず母音字が並んでいて、a(ア)、ā(アー)、i(イ)、ī(イー)、u(ウ)、ū(ウー)という基本母音、続いてe(エ)、ai(アイ)、o(オ)、au(アウ)という二次的な母音が配列されています。このうち、日本語の仮名一字で書き表せる音だけを順番に拾い出すと、「あいうえお」という並びが浮かび上がります。これが「あいうえお」の語順の由来です。
仏教の悉曇学には「阿吽(あうん)」という考え方もあります。口を大きく開いて発する「阿」の音を字音の始まりとし、口を閉じて発する「吽」の音を字音の終わりとする思想です。五十音図の最初に母音「あ」が置かれているのは、この阿吽思想とも関係が深いとされます。狛犬や仁王像が阿形(口を開いた像)と吽形(口を閉じた像)の対になっているのも、同じ思想に由来しています。
「あいうえお」の並びは、日本人が独自に思いついた語呂合わせではなく、仏教とともに伝来したインド由来の音韻学の枠組みを、日本語の音韻体系に当てはめる形で導入されたものです。
発案者説は4つに整理でき、明覚説が定説として支持されている
ここまでの内容を発案者に関する説として一覧に整理すると、次の4つになります。
まず明覚上人説です。平安時代後期の天台僧・明覚が、1093年の著作『反音作法』において、現存最古の完成度の高い五十音図を示しました。孔雀経音義などの先行資料を踏まえつつ体系化した人物として、国語学・音韻学の分野で最も広く支持されている説です。石川県加賀市の山代温泉には、あいうえお五十音図の創始者として明覚を顕彰する史跡があります。
次に空海発案説です。江戸時代を通じて広く信じられていた俗説ですが、いろは歌の成立が空海の没後100年以上あとであるため、学術的には否定されています。空海自身は悉曇学を日本にもたらした先駆者ではあるものの、五十音図そのものの作者ではありません。
三つめが吉備真備発案説です。片仮名の発明者として語られることがありますが、五十音図との直接の関連を裏付ける確実な史料は見つかっていません。
四つめが、特定の一個人によるものではないとする見方です。仮名や五十音図の成立を、奈良時代から平安時代にかけての長い変遷の積み重ねとみる立場で、現在の国語学における主流の理解に近いものです。明覚はこの積み重ねの到達点として五十音図を確立した人物、と位置づけると実態に近くなります。
| 説 | 内容 | 学術的な評価 |
|---|---|---|
| 明覚上人説 | 1093年『反音作法』に最古の完成形を残した | 定説として広く支持 |
| 空海発案説 | 江戸時代に広まった俗説 | 年代が合わず否定 |
| 吉備真備発案説 | 片仮名の発明者とする伝承 | 確実な史料の裏付けなし |
| 集団形成説 | 複数の学僧による長期の積み重ね | 主流の理解に近い |
いろは歌との違いは配列原理にあり、成立時期はほぼ重なる
「あいうえお」と並んで、かつて仮名の学習で広く使われていたのが「いろは歌」です。「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ」という七五調の韻文で、仏教の無常観を詠みながら、47種類の仮名を一字ずつ重複させることなくすべて使い切る言葉遊びの性格を持っています。いろは歌の成立時期は10世紀末から11世紀半ば頃と推定されていて、五十音図が体系として整えられた時期とほぼ重なります。
両者の大きな違いは配列の原理です。五十音図は音韻学的な規則性(同じ子音は同じ行、同じ母音は同じ段)に基づいて機械的に配列された表であるのに対し、いろは歌はあくまで意味を持つ歌として仮名を並べたもので、規則的な音韻分類を目的としていません。いろは歌には現在使われていない「ゐ」「ゑ」が含まれる一方、「ん」は含まれていないという違いもあります。
明治時代に入り、国語学者・大槻文彦(おおつきふみひこ)が明治8年(1875年)に政府の命を受けて編纂に着手し、明治19年(1886年)に完成、明治22年から24年(1889年から1891年)にかけて刊行された、日本初の近代的な国語辞典『言海』が、それまでの意味分類方式や「いろは順」を廃し、五十音順で約39,000語を配列しました。これが辞書における五十音順採用の大きな転換点になっています。辞書の配列に五十音順を用いること自体は『言海』が最初というわけではなく、室町時代後期の文明16年(1484年)に成立した『温故知新書』が、いろは順ではなく五十音順を採用した最古の例とされています。ただしこれはあくまで先駆的な一例にとどまり、実際に五十音順が辞書配列の標準として社会に広く定着したのは、大槻文彦の『言海』の影響が決定的でした。江戸時代までは、庶民の識字教育や辞書の配列において、いろは順のほうがむしろ一般的だったのです。五十音図という表自体は平安時代に確立していたものの、それが日常生活で仮名の標準的な並べ方として定着したのは、いろは順から五十音順への転換が進んだ明治以降ということになります。
北原白秋のあめんぼの歌は、五十音図を題材にした大正時代の創作詩
現代の日本人が「あいうえお」あるいは五十音と聞いて連想するもう一つの存在が、詩人・北原白秋(きたはらはくしゅう)が1922年(大正11年)に発表した詩「五十音」です。「水馬(あめんぼ)赤いな アイウエオ 浮藻(うきも)に小蝦(こえび)も 泳いでる」という書き出しで始まるこの詩は、通称「あめんぼの歌」として広く知られていて、五十音の各行の発音がすべて盛り込まれるよう作られています。
この詩はもともと大正時代の童謡集『祭の笛』に「学問のうた」の一編として収録されたもので、子供が遊びながら日本語の発音を楽しく身につけられるように作られました。のちに作曲家の下總皖一(しもおさかんいち)が曲をつけ、学校教育の場でも歌われる童謡として定着しています。現在では、アナウンサーや声優、俳優といった声を仕事にする人たちが、滑舌や発声の基礎訓練として用いる教材としても活用されています。五十音図というインド由来の音韻学的な表が、大正時代の詩人の手によって子供にも親しみやすい詩として再構成され、現代にまで受け継がれている点は興味深いところです。
北原白秋の「五十音」はあくまで既存の五十音図を題材にした創作詩で、五十音図そのものの発案者ではありません。あめんぼの歌を作った人があいうえおを作った人だと誤解されることがありますが、時代がまったく異なる別の話です。
五十音を使った現代的な言葉遊びとして「あいうえお作文」もよく知られています。五十音の各文字を頭文字にして、それぞれの文字から始まる文章を順番に並べていく遊びで、自己紹介や結婚式の誓いの言葉、学校の授業、SNSのメッセージなど、さまざまな場面で使われています。平安時代の学僧が音韻研究のために整理した表が、千年以上を経た現代では、名前を使った言葉遊びやお祝いのメッセージを作る土台としても親しまれています。
あ・い・うの文字そのものは、平仮名と片仮名で異なる経路をたどった
ここまでは五十音図という表の発案者について見てきましたが、「あ」「い」「う」といった平仮名の文字そのものの成り立ちも整理しておく価値があります。発案者を空海に結びつける俗説は、平仮名という文字そのものの起源とも混同されて語られることが多いためです。
平仮名のもとになったのは、奈良時代を中心に使われた万葉仮名です。万葉仮名は、漢字が本来持つ意味を無視し、漢字の音だけを借りて日本語の音を表記する方法で、『万葉集』の表記に多く使われたことからこの名がついています。片仮名や平仮名が確立する以前の日本語は、この万葉仮名を使って漢字だけで書き表されていました。
平仮名は、万葉仮名として使われていた漢字の字体を筆記体としてさらに崩し、簡略化していく過程で生まれています。漢字の「安」を崩した草書体から平仮名の「あ」が、「以」から「い」が、「宇」から「う」が、それぞれ長い年月をかけて形作られていったとされています。この崩し字は「草仮名」とも呼ばれ、平安時代の貴族女性たちを中心に、和歌や物語を書き記すための文字として広まりました。
片仮名は平仮名とはまったく異なる経路で生まれています。9世紀初め頃、奈良の寺院で学ぶ学僧たちが、中国語で書かれた漢文を日本語の語順で読むための補助記号として、漢字の一部の画数を省略して書き添えたことが始まりとされています。漢字「阿」のつくりの部分を取り出したものが片仮名の「ア」に、「伊」の偏が「イ」になった、という具合です。
平仮名は貴族の書写文化のなかで、片仮名は仏教僧の訓読文化のなかで、それぞれ長い年月をかけて自然に形作られていったもので、特定の一人が特定の年に発明したものではありません。空海や吉備真備といった偉人の名前が文字の発明者として語られるようになったのは、いずれも彼らの没後、後世になってから結びつけられた話だと考えるのが、国語学における妥当な理解です。
五十音図に空欄がある理由は、音の理論的な枠組みを先に整理したから
五十音図をよく見ると、五十音という名前でありながら、実際に使われている仮名は五十より少ないことに気づきます。ヤ行の「い」「え」、ワ行の「う」にあたるマス目は空欄です。これは、明覚らが五十音図を整理した当時の日本語で、ア行の「い」とヤ行の「い」、ア行の「う」とワ行の「う」の発音がすでに区別されていなかった(あるいは区別する必要がなかった)ためです。
一方、ワ行のイ段・エ段にあたる音、つまりwiやweという発音は古代の日本語に存在していて、それぞれ「ゐ」「ゑ」という専用の仮名が使われていました。時代が下るにつれてこれらの音は「い」「え」の発音へと合流し、区別する必要がなくなったため、「ゐ」「ゑ」は昭和21年(1946年)の現代仮名遣いの制定を機に、公式な表記から姿を消していきました。
こうした空きがあるのに、なぜ五十音図という体系的な表がわざわざ作られたのでしょうか。それは、五十音図が単に使われている仮名を並べただけの一覧表ではなく、悉曇学という音韻理論に基づいて、日本語の音がどのような子音と母音の組み合わせで成り立っているかを理論的に整理しようとした産物だからです。実際に使用頻度の高い音だけを都合よく並べたのではなく、理論上想定される音の枠組みを先に用意し、そこに実際の仮名を当てはめていく発想自体が、明覚ら平安時代の学僧の学問水準の高さを示しています。
ハングルとの比較でわかる、日本語の文字に単一の発案者がいない理由
「あいうえお」の発案者を探すとき、比較対象としてしばしば話題になるのが、韓国のハングル(訓民正音)です。ハングルは、李氏朝鮮の第4代国王・世宗(せそう)が、世宗25年(1443年)に、それまで漢字を借りて表記していた朝鮮語のために独自に制定した文字体系であることが、公的な記録によってはっきりわかっています。制定の目的、制定した人物、制定年がこれほど明確に特定されている文字体系は、世界的にも珍しい部類です。
日本語の仮名や五十音図は、これとは対照的な成り立ちをたどっています。平仮名は貴族の書写文化のなかで、片仮名は仏教僧の訓読文化のなかで、それぞれ長い年月をかけて自然に形を変えながら定着していきました。五十音図についても、明覚以前にすでに『孔雀経音義』や『金光明最勝王経音義』といった先行する音図が存在していたことがわかっています。日本語の文字・音韻体系は、特定の権力者が制定を宣言したハングルのような文字とは異なり、複数の時代・複数の人物の手を経て緩やかに形成された体系です。「あいうえお」に単一の発明者がいないのは、日本語の文字文化そのものの成り立ち方によるものといえます。
現代の五十音図は、ローマ字入力や日本語教育の基盤になっている
平安時代に悉曇学の研究の副産物として確立された五十音図は、千年近くを経た現在でも、日本語学習の根幹をなす基礎的な枠組みであり続けています。国語辞典や電話帳、各種索引の配列規則はもちろん、小学校の国語教育における仮名の導入、日本語を学ぶ外国人向けの教材、さらにはローマ字入力やかな入力といったコンピューターの入力方式まで、五十音の行・段構造がそのまま基盤として使われています。
五十音図が持つ「同じ行は同じ子音、同じ段は同じ母音」という規則性は、日本語の動詞の活用を理解するうえでも重要です。学校文法で習う五段活用などの動詞の活用表も、根本的にはこの五十音図の構造を前提に組み立てられています。
コンピューターの日本語入力方式にも、五十音図の構造は色濃く反映されています。日本語のキーボード入力には、大きく分けてローマ字入力とかな入力(JIS配列)の二方式がありますが、いずれも五十音図の行と段の組み合わせを前提に設計されています。ローマ字入力は、行を示す子音のアルファベットと段を示す母音のアルファベットを組み合わせて一文字を打つ方式で、これは明覚が確立した同じ子音は同じ行、同じ母音は同じ段という五十音図の理論を、そのままキー入力に応用したものといえます。JISかな配列は一つのキーに一つの仮名を直接割り当てる方式で、ローマ字入力より1文字あたりの打鍵数が少なく済む利点がありますが、覚えるキーの数が多いことから、現在は国内でローマ字入力のほうが広く普及しています。
日本語を母語としない人への日本語教育の現場でも、五十音図は欠かせない教材です。文化庁が作成した日本語教育教材でも、五十音表を使って語彙を増やす練習や、リズム・アクセントを正確に覚えるための学習が取り入れられています。動詞の活用を教える際には、講師が繰り返し五十音図を提示しながら行と段の規則性を説明するのが定石になっていて、この表に早い段階で慣れておくことで、その後の文法学習全体がスムーズに進むとされています。
平安時代の僧侶が仏典を正確に読誦するために作り上げた音韻の表が、千年の時を経て、現代日本語の文法教育や外国人向けの日本語教育、コンピューターの文字入力方式の基盤にまで応用されています。これは五十音図という発明の射程の広さを示す事実です。
「あいうえお」で始まる五十音図の発案者については、空海が作ったという話が広く流布していますが、年代の整合性が取れず、学術的には否定されています。史料に基づく定説では、平安時代中期にすでに存在した『孔雀経音義』などの先行する音図を踏まえたうえで、平安時代後期の天台僧・明覚が1093年の著作『反音作法』において、現存最古とされる完成度の高い五十音図を確立しました。「あいうえお」という母音の並び順は、明覚らが学んだ悉曇学が依拠するインドの梵字の字母表の配列に由来していて、日本語独自に考案されたものではありません。吉備真備発案説にも確実な裏付けはなく、仮名や五十音図の成立は、特定の一個人による発明というより、奈良時代から平安時代にかけての長い変遷と、複数の学僧の積み重ねによる成果と捉えるのが実態に近いといえます。明覚は、その積み重ねの到達点として五十音図という枠組みを体系的に確立した人物です。大正時代には詩人・北原白秋が「五十音」という詩を通じて、この平安時代由来の音韻表を子供にも親しみやすい形で再び世に送り出しました。悉曇学という仏教の学問から生まれた「あいうえお」は、千年以上の時を超えて、現代の教育やIT技術の基盤にまで息づいています。
あいうえおの母音や行がなぜこの順番に並んでいるのかは、日本語あいうえお順番の語源と歴史|由来を完全解説で詳しく解説しています。
平安時代の道具や文化が今の言葉に残っている例は他にもあり、几帳面という言葉が平安時代の家具「几帳」の面取り加工に由来することも同様の系譜にある。








