マラソンはなぜ42.195kmなのか、距離の由来と歴史を解説

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マラソンの距離は、なぜ42.195kmという中途半端な数字になったのでしょうか。答えは、1908年のロンドンオリンピックでイギリス王室から出された観戦にまつわる要望と、その後の国際陸上競技団体による正式決定にあります。古代ギリシャの伝説に始まったこの競技は、大会ごとに距離がばらばらだった時代を経て、王妃のちょっとした希望によって偶然この数字にたどり着き、1921年に公式な距離として統一されました。この記事では、マラソンという競技名の起源、42.195kmが生まれた経緯、日本におけるマラソンの発展、そして現在の運営ルールまでを、順を追って見ていきます。

目次

マラソンの名前は紀元前490年のマラトンの戦いに由来する

マラソンという競技名は、紀元前490年に起きた「マラトンの戦い」に由来します。この戦いは、アテネを中心とするギリシャの都市国家連合軍と、大帝国だったペルシア帝国との間で行われ、ギリシャ側の勝利で終わりました。

広く知られている伝説では、この勝利を一刻も早くアテネ市民に伝えるため、一人の伝令がマラトンの戦場からアテネまで約40kmを走り抜き、「我ら勝てり」と告げた直後に息絶えたとされています。この逸話が、長距離走競技マラソンの名前と精神的な起源になっているというのが、一般に広まっているストーリーです。

伝令が力尽きたという逸話は19世紀の詩から広まった

ところが近年の歴史研究によれば、この話には史実としての裏付けが薄いとされています。古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの『歴史』には、フェイディピデスという伝令が登場しますが、彼が走ったのはマラトンからアテネへの約40kmではなく、アテネからスパルタへ援軍を要請するための約225km、諸説では230km以上という、はるかに長い距離だったと記録されています。しかもこの任務は2日間で走破されたとされ、「アテネで勝利を告げて絶命した」という話自体はヘロドトスの記録には存在しません。

では、なぜこの物語が広まったのでしょうか。19世紀のイギリスの詩人ロバート・ブラウニングが、伝令がアテネまで走り「喜べ、我々は勝利した」と宣言して息絶えるという内容の詩を発表し、これが人気を博したことに由来すると考えられています。現代人が抱くマラソンの起源伝説は、古代の史実というより、近代になって文学的に再構成され定着した物語だったわけです。

近代オリンピックは1896年にマラソン競走を新種目として創設した

この伝説が近代オリンピックの創設者たちの心をとらえたことは間違いありません。「古代ギリシャの栄光を現代に蘇らせる」という趣旨のもと、1896年に開催された第1回近代オリンピックのアテネ大会で、マラトンからアテネの競技場までの道のりを走る「マラソン競走」という種目が新たに創設されました。これが、現在まで続く陸上競技マラソンの始まりです。

距離は大会ごとにばらばらだった黎明期

現在では「マラソンは42.195km」というのは世界共通の常識ですが、近代オリンピック創設からしばらくの間、マラソンの距離は大会ごとに異なっていました。1896年の第1回アテネ大会では、実際のマラトンの戦場跡からアテネの競技場までの実測距離である約40kmが採用されました。その後の大会では開催地の地理的条件やコース設定の都合により、距離は毎回微妙に変動しています。

開催年大会距離の目安
1896年アテネ大会約40km
1900年パリ大会約40.26km
1904年セントルイス大会約40km弱
1908年ロンドン大会42.195km
1912年ストックホルム大会約40.2km
1920年アントワープ大会約42.75km
1924年パリ大会42.195km(以後統一)

このように、マラソンは長らく「都市から競技場までのおおよその距離を走る」という、おおらかなルールのもとで実施されていた種目でした。この状況が変わる転機となったのが、1908年の第4回ロンドンオリンピックです。

42.195kmは1908年ロンドン大会の王妃の要望で誕生した

1908年のロンドン大会では、当初マラソンの距離は42km程度で設定される予定でした。スタート地点はロンドン郊外のウィンザー城、ゴールはロンドンのホワイトシティ競技場という計画です。

ところが、ここで距離が変更される出来事が起こります。当時のイギリス王妃だったアレクサンドラ王妃から、「スタート地点を、子どもたちが城の窓から観戦できるようウィンザー城のロイヤル・ナーサリーの前庭にしてほしい」「ゴールは競技場内のロイヤルボックスの真正面に設置してほしい」という要望が出されたのです。この意向を反映してコースを再設定した結果、スタートとゴールの位置が当初の計画よりわずかに延び、最終的な距離は42.195km、26マイル385ヤードとなりました。

現在世界中のランナーが走る42.195kmという距離は、厳密な理論やデータに基づいて設定されたものではなく、王室の観戦の都合という偶然の産物によって生まれた数字だったのです。

ドランド・ピエトリの激走は失格でも語り継がれている

1908年ロンドン大会のマラソンは、距離の由来だけでなく、競技そのものが劇的な展開を見せたことでも知られています。主役はイタリア人選手ドランド・ピエトリです。

レース当日、ロンドンは異常な暑さに見舞われました。ピエトリは32km地点で首位の南アフリカ選手チャールズ・ヘフェロンに4分差をつけられる2位につけていましたが、そこから追い上げ、39km地点でついに首位を奪います。しかし灼熱の暑さと疲労により、競技場に入ってからのラスト350mで実に4回も倒れ、そのたびに係員に助け起こされながら、ようやくゴールラインを越えました。フィニッシュタイムは2時間54分46秒。ラストのわずか350mに10分近くを要したことになります。

2位でゴールしたアメリカのジョニー・ヘイズ側から「ピエトリは係員に体を支えられながらゴールした」として異議が申し立てられ、この抗議は認められました。ピエトリは繰り上げでの優勝を果たせず、失格となっています。

それでも満身創痍になりながら走り抜こうとしたピエトリの姿は観客の心を打ち、一夜にして有名人となりました。アレクサンドラ王妃からは健闘を称える銀のトロフィーが贈られ、作曲家アーヴィング・バーリンは彼を称える楽曲を作ったとも言われています。その後ピエトリはアメリカでのエキシビションレースに招かれ、22レース中17勝という成績を収めました。この逸話は「ドランドの悲劇」として、今もマラソンの歴史を語るうえで欠かせないエピソードです。

国際陸連は1921年に42.195kmを公式距離に統一した

1908年ロンドン大会で生まれた42.195kmという距離ですが、その後もしばらく大会ごとの距離は統一されていませんでした。1912年のストックホルム大会は約40.2km、1920年のアントワープ大会は約42.75kmと、依然としてばらつきが残っていたのです。

この状況に一石を投じたのが、国際陸上競技連盟です。1921年、同連盟はマラソンの公式距離を正式に統一することを決定しました。その際に採用されたのが、1908年ロンドン大会で走られた42.195kmという距離です。多くの選手や関係者の間で語り継がれていたドランド・ピエトリの激走の記憶も、この距離が正式な基準として選ばれる後押しになったとも言われています。

こうして統一された42.195kmという距離は、1924年の第8回パリオリンピックから正式に採用され、以後現在に至るまで世界中のあらゆるマラソン競技における公式距離として用いられています。誕生から100年以上を経た今も、この距離が変わることなく受け継がれているのです。

日本マラソンの礎は金栗四三が築いた

日本人とマラソンの関わりも、興味深い歴史を持っています。日本人として初めてオリンピックに出場したのは、1912年の第5回ストックホルムオリンピックに参加した金栗四三です。金栗は前年の1911年に行われた予選会で、マラソン足袋と呼ばれる特製シューズを履き、当時の世界記録を27分も更新する2時間32分45秒という記録を出し、代表の座を勝ち取りました。

しかし本番のストックホルム大会では過酷な暑さの影響で、レース途中の26.7km地点で日射病により意識を失って倒れてしまいます。近くの農家に助けられた金栗が目を覚ましたのは、なんとレース終了後の翌日の朝でした。この時、日本オリンピック委員会には棄権の連絡がうまく伝わらず、金栗は長い間「行方不明の選手」として競技結果に記録され続けるという珍しいエピソードも残っています。この記録は後年、ストックホルムオリンピック開催55周年を記念して、1967年に金栗が76歳で現地に招かれ、正式に「完走」というかたちで幕を閉じました。ゴールまでに要した時間は54年8か月6日5時間32分20秒3という、オリンピック史上最も長い完走タイムとして知られています。

この経験を糧に、金栗はその後、日本の陸上競技、特に長距離走の発展に生涯を捧げました。1920年には「関東大学箱根往復駅伝競走」、すなわち現在も正月の風物詩として親しまれている箱根駅伝の創設に尽力し、以後の日本マラソン界の礎を築いたことから、「日本マラソンの父」と称されています。

マラソンの世界記録は2023年に2時間0分35秒まで更新された

42.195kmという距離自体は100年以上変わっていない一方で、その距離を走破するタイムは年々更新され続けています。近年で特に話題となったのが、ケニアの選手たちによる記録更新です。

長年マラソン界の第一人者として君臨してきたエリウド・キプチョゲ選手は、2022年に2時間1分9秒という世界記録を樹立しました。しかし、この記録は長くは続きませんでした。

時期選手大会記録
2022年エリウド・キプチョゲ2時間1分9秒
2022年12月ケルビン・キプタムバレンシアマラソン(デビュー戦)2時間1分53秒
2023年4月ケルビン・キプタムロンドンマラソン2時間1分25秒
2023年10月ケルビン・キプタムシカゴマラソン2時間0分35秒

2022年12月にバレンシアマラソンでフルマラソンデビューを果たしたケルビン・キプタム選手は、デビュー戦でいきなり2時間1分53秒を記録して2時間2分の壁を破ると、2023年4月のロンドンマラソンでは2時間1分25秒まで記録を伸ばし、キプチョゲの世界記録にわずか16秒差まで迫りました。そして同年10月のシカゴマラソンで、キプタムはキプチョゲの記録を34秒更新する2時間0分35秒というタイムをマークし、新たな世界記録保持者となっています。マラソン挑戦わずか3度目での快挙であり、人類史上初の2時間切り達成も時間の問題と目されていました。

しかし2024年2月、キプタム選手は交通事故により24歳という若さでこの世を去りました。この出来事は、42.195kmという距離に人生をかけて挑み続けるアスリートたちの存在の重みを、改めて世界に知らしめることとなりました。

女性のマラソン参加は1967年のスウィッツァーの挑戦から広がった

現在では男女問わず多くの人が気軽に参加しているマラソンですが、かつては「女性が42.195kmもの距離を走ることは生理的に不可能であり、身体に害を及ぼす」という考え方が陸上競技関係者の間で語られていた時代がありました。実際、1960年代までボストンマラソンをはじめとする多くの大会では、女性の出場が正式には認められていませんでした。

この状況に風穴を開けたのが、アメリカ人ランナーのキャサリン・スウィッツァーです。1966年には別のランナーであるロベルタ・ギブが非公式ながらボストンマラソンを完走していましたが、主催者側は「たまたま同じコースを同じ時間帯に走っていた通行人」という扱いをし、正式な参加記録としては認めませんでした。

翌1967年、スウィッツァーは性別を悟られないよう「K.V.スウィッツァー」という名前でエントリーし、ゼッケンをつけてボストンマラソンのスタートラインに立ちました。レースの最中、彼女が女性だと気づいた大会関係者のジョック・センプルは激高して彼女を強引にコースから排除しようとしましたが、周囲の協力者に守られながら完走を果たします。この一部始終を捉えた写真は世界中に配信され、女性のマラソン参加を巡る議論に一石を投じました。

この出来事をきっかけに、1972年からはボストンマラソンでも女子の公式参加が正式に認められるようになり、その後、他の主要マラソン大会でも女性の参加が広がっていきました。オリンピックの正式種目として女子マラソンが採用されたのは1984年のロサンゼルス大会からで、男子マラソンの採用である1896年から実に88年もの歳月を要しています。

ワールドマラソンメジャーズは現在7大会体制で開催されている

マラソンの歴史を語るうえで欠かせないのが、世界各国で開催されている主要マラソン大会の存在です。中でも近年注目されているのが「ワールドマラソンメジャーズ」と呼ばれる大会シリーズです。

このシリーズは2006年、ボストンマラソン、ロンドンマラソン、ベルリンマラソン、シカゴマラソン、ニューヨークシティマラソンという歴史と伝統を誇る5つの大会によってスタートしました。各大会の成績に応じてポイントが付与され、シリーズ全体でのランキングが争われる仕組みです。

2013年大会からは、日本を代表する市民マラソンである東京マラソンが新たにシリーズに加わりました。東京マラソンは、既存の5大会が開催されてから何年も経過した後にシリーズへ途中加入を果たした初めての大会であり、これによりアジア圏で唯一シリーズに名を連ねる大会となっています。2015年から2016年のシーズンからは製薬・医療機器メーカーのアボット・ラボラトリーズがタイトルスポンサーとなり「アボット・ワールドマラソンメジャーズ」と呼ばれるようになりました。さらに2025年シーズンからは新たにシドニーマラソンが加わり、2026年シーズン現在は東京、ボストン、ロンドン、ベルリン、シカゴ、シドニー、ニューヨークシティの7大会体制で開催されています。

これらの大会は単なるレースにとどまらず、開催都市の観光や経済にも影響を与える一大イベントへと成長しており、世界中の市民ランナーにとって完走すること自体が憧れの目標となっています。

東京マラソンは2007年に二つの大会の統合で誕生した

シリーズの中で唯一のアジア開催都市である東京マラソンにも、興味深い誕生の歴史があります。東京マラソンが第1回大会を開いたのは2007年ですが、それ以前の東京では、エリート選手中心の「東京国際マラソン」と、市民ランナー中心の「東京シティロードレース」という、性格の異なる二つの大会が別々に開催されていました。

2003年、当時の東京都知事だった石原慎太郎氏が、経済波及効果やスポーツ・観光の振興につながるとして、銀座など東京の目抜き通りを舞台にした大規模な市民マラソン開催の構想を打ち出します。この構想のもと、東京国際マラソンと東京シティロードレースという二つの大会を統合するかたちで、2007年に新たな東京マラソンが誕生しました。これにより、東京国際マラソンは2006年大会をもって幕を閉じています。

2007年2月18日に開催された第1回東京マラソンには、約3万人規模の市民ランナーが参加し、これは日本国内では前例のない規模の市民参加型マラソン大会となりました。その後、2010年には東京都と日本陸上競技連盟による組織委員会を発展的に解消するかたちで一般財団法人東京マラソン財団が設立され、2011年大会以降はこの財団が主催団体となって大会運営を担っています。

マラソンは心肺機能の向上や生活習慣病予防に役立つとされる

42.195kmという長い距離を走るマラソンは、なぜこれほど多くの人を惹きつけるのでしょうか。理由の一つに、心身にもたらされる様々な効果が挙げられます。

マラソンをはじめとする持久系の運動を継続することで、心肺機能や基礎代謝の維持につながり、血流のめぐりがよくなることで肩こりや冷え性の緩和が期待できるとされています。また、体内に蓄積された余分な糖分や脂肪をエネルギー源として活用する運動であることから、体づくりのサポートになるという声もあります。心肺機能が鍛えられることで、体内に取り込んだ酸素を効率よく使い、疲れにくい体づくりにつながるとも言われており、加齢に伴う息切れや疲労感への備えとして役立つとされています。このほか、生活習慣を整える運動習慣として、骨密度の維持による骨粗鬆症対策など、マラソンやランニングがもたらすとされる効果は多岐にわたります。

一方で、過度な負荷は体に悪影響を及ぼす可能性がある点にも注意が必要です。特に普段運動をしていない人が急に長時間、高強度の運動を行うと、心臓に大きな負担がかかり、不整脈や心筋梗塞といったリスクが高まることも指摘されています。42.195kmという距離に挑む際には、自分の体力や健康状態に合わせて無理のないトレーニングを積み重ねることが大切です。

公認コースの距離誤差は42m以内に厳格管理されている

100年以上前に生まれた42.195kmという距離ですが、現在ではその測定や大会運営についても国際陸上競技連盟の細かなルールに基づいて厳格に管理されています。公認コースとして認められるためには、実際の距離が42.195kmに対して誤差42m以下に収まるよう精密に測定されなければなりません。距離が短くなることは許されず、長くなる方向にのみわずかな誤差が許容される仕組みです。かつては大会ごとに数百メートル単位でずれていた距離が、今では専用の測定機器を用いてメートル単位で厳密に管理されています。

大会運営の面でも細かなルールが定められています。コース上にはスタートとフィニッシュ地点に加えて、約5km間隔で給水所を設置することが義務づけられており、10kmを超えるレースでは水以外にもエネルギー補給用の飲食物を提供できる決まりになっています。給水所の運営スタッフは所定の区域内にとどまり、選手の走行を妨げないよう配慮することも求められます。さらに多くの市民マラソン大会では、コース上の複数地点に「関門」と呼ばれる制限時間が設けられており、これに間に合わなかった選手は途中棄権という扱いになります。これは失格とは異なり、交通規制や大会運営上の都合による措置とされています。

こうした細部にわたるルール整備によって、42.195kmという距離は歴史的偶然の産物から、世界中どこで走っても公平に記録を比較できる国際基準へと生まれ変わりました。

車椅子マラソンは1975年のボストン参加から正式競技へ発展した

42.195kmという距離を走るのは、健常者のランナーだけではありません。車椅子を使用するアスリートたちによる車椅子マラソンも、パラリンピックの主要種目として発展を遂げてきました。

その原点は、1948年にイギリスの国立脊髄損傷センターの医師ルートヴィヒ・グットマンが、障がいを持つ人々の社会復帰を後押しする目的で開催した「ストークマンデビル競技大会」にさかのぼります。この大会は1952年に国際大会へと発展し、後のパラリンピックの礎となりました。

車椅子によるマラソン競技自体は1950年代から存在していましたが、大きな転機となったのは1975年のボストンマラソンです。当時24歳だったアメリカ人のボブ・ホールが、それまで健常者のみに参加が限られていたボストンマラソンに車椅子でも出場できるよう訴え、これが認められて実際にスタートラインに立ったことで、車椅子マラソンは正式な競技としての第一歩を踏み出しました。その後、1984年のロサンゼルスオリンピック開催時に行われた「ニューヨーク・ストークマンデビル・パラリンピック」から、車椅子マラソンは夏季パラリンピックの正式種目として採用されています。

競技を支える車椅子自体も、時代とともに大きく進化してきました。黎明期はアルミ製で車輪が4つ付いたものが主流でしたが、1990年代にはより空気抵抗の少ない3輪仕様へと変わり、素材もカーボン製となって軽量化が実現しました。さらに2015年頃からは車輪自体もカーボンディスク素材へと進化し、空気抵抗をさらに抑えることで記録の向上に貢献しています。

マラソンという競技、そして42.195kmという距離には、古代ギリシャの伝説、近代オリンピックの理念、イギリス王室のちょっとした要望、そして選手たちの汗と涙が幾重にも重なった歴史が詰まっています。マラトンの戦いに由来する名前は文学的に彩られた物語として広まり、1908年ロンドン大会では王妃の観戦の都合という偶然から42.195kmという数字が生まれました。1921年の国際陸連による統一を経て、この距離は日本の金栗四三をはじめとする選手たちの挑戦の舞台となり、キャサリン・スウィッツァーの一歩から女性にも門戸が開かれ、現在ではワールドマラソンメジャーズという国際的なムーブメントにまで発展しています。世界記録は今もケニアの選手たちによって塗り替えられ続けており、公認コースの管理は誤差42m以内という精密さで支えられています。普段何気なく口にしている「フルマラソン42.195km」という言葉の裏には、こうした偶然と必然が織りなす物語があります。次に大会でこの距離を目にするとき、あるいは自分自身がその距離に挑むときには、この歴史の重みを思い出してみてください。

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