1967年にオートフライヤーを導入したのは湖池屋、カルビーではない理由

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1967年にオートフライヤーを導入し、日本で初めてポテトチップスの量産化に成功したのは、カルビーではなく湖池屋です。「1967年 カルビー オートフライヤー」という組み合わせで検索すると、カルビーがこの技術を導入したという趣旨の記述に行き当たることがありますが、これは事実と異なります。カルビーが自社のポテトチップスを発売したのは、湖池屋の量産化成功から8年後の1975年です。

ではなぜ、カルビーとオートフライヤーが結び付けられてしまうのでしょうか。理由は単純で、カルビーにとっても1967年は重要な出来事があった年だからです。この年、カルビーの創業者である松尾孝は、主力商品「かっぱえびせん」をアメリカで販売するためにニューヨークの国際菓子博覧会に出展しました。この記事では、1967年に湖池屋とカルビーそれぞれで実際に何が起きたのかを分けて整理し、誤解が生まれた背景まで踏み込んで解説します。

目次

1967年のオートフライヤー導入は湖池屋の実績です

日本で初めてポテトチップスの量産化に成功したのは、1967年の湖池屋です。カルビーではありません。湖池屋は1953年に創業者の小池和夫によって創業されました。正式な株式会社設立は1958年とされています。社名の「湖池屋」は、創業者の姓である「小池」の「小」を、郷里の長野県にある諏訪湖にちなんで「湖」に変えたもので、会社を諏訪湖のように大きくしたいという願いが込められていました。創業当初は「お好み揚げ」のようなおつまみ菓子を製造販売しており、まだポテトチップス専業ではありませんでした。

湖池屋がポテトチップスに本格的に取り組み始めたのは1962年です。この年、日本で初めて「のり塩味」のポテトチップスを完成させ、大ヒットとなりました。「のり塩」は現在に至るまで湖池屋を象徴するフレーバーです。ただ、ヒットしたことで新たな課題が生まれます。当時のポテトチップス製造は大鍋を使って職人が手作業でジャガイモを揚げる工程が中心で、需要の増加に生産がまったく追いつきませんでした。手作業である以上、生産量には物理的な限界があり、全国への安定供給は難しい状況でした。

この課題を解決するため、湖池屋の小池和夫はアメリカに渡り、現地のポテトチップス製造現場を視察します。アメリカではすでに機械化された連続揚げ機、いわゆるオートフライヤーによる大量生産が行われていました。日本に戻った小池は、国内の技術者や国産メーカーと協力し、日本の環境や原料に合わせた独自のオートフライヤーの開発に着手します。手揚げならではの食感や風味を機械で再現することは簡単ではなく、試行錯誤が繰り返されたようですが、湖池屋は開発を続け、1967年、独自開発のオートフライヤーによる量産体制を確立しました。これが日本で初めてのポテトチップス量産化です。

この技術革新によって、手作業に頼っていたポテトチップスの生産は機械化された大量生産へ移行し、全国的な安定供給と品質の均一化が可能になりました。一部の地域や店舗だけの珍しい菓子だったポテトチップスが、日本全国どこでも買える定番のスナックへと育っていく土台は、この1967年の技術革新によって築かれたと言えます。

カルビーの1967年はニューヨーク博覧会への出展でした

カルビーは1949年、広島県広島市で「松尾糧食工業株式会社」として設立されました。1955年に現在の社名であるカルビーへ変更しています。社名はカルシウムの「カル」とビタミンB1の「ビー」を組み合わせた造語で、栄養価に優れた商品づくりを目指す創業の理念が込められていました。創業者の松尾孝は、経営再建のため飴菓子以外の新製品開発に取り組み、アメリカから安価に輸入されていた小麦粉に着目します。1955年には日本初の小麦あられである「かっぱあられ」を開発し、1964年には瀬戸内海で獲れる小海老を練り込んだ「かっぱえびせん」を発売しました。これが大ヒット商品となり、カルビーの名前を全国に広めます。

そして迎えたのが1967年です。松尾孝は「かっぱえびせん」を海外市場、とりわけアメリカで販売することを狙い、ニューヨークで開催された国際菓子博覧会に出展しました。アメリカで評判になれば日本でもきっと評価が高まるだろう、という戦略的な狙いがあったようです。この渡米の際、松尾孝は現地のスーパーマーケットに大量のポテトチップスが積まれて売られている光景を目にし、これを日本でも売ろうという構想を抱いたと伝えられています。同じ年の11月には、松尾孝の三男である松尾雅彦も渡米し、ニューヨークの卸大手であるローレンツ・シュナイダー社のミルトン・ブラウンからスナック菓子ビジネス、特に品質管理の考え方を学んだという記録も残っています。

つまりカルビーにとっての1967年は、かっぱえびせんの海外展開とポテトチップス事業への着想を得た年であり、オートフライヤーという生産設備を実際に導入した年ではありません。この点が、湖池屋の実績と混同されやすい最大の理由です。

カルビーのポテトチップス発売は1975年、湖池屋から8年後です

1967年に得た構想が実際の商品として結実するまでには、なお8年の歳月を要しました。カルビーが自社のポテトチップス、うすしお味の原型となる商品を発売したのは1975年です。参入にあたってカルビーは、原料となるジャガイモの安定調達を重要課題と位置づけ、北海道にグループ会社のカルビーポテト株式会社を設立しました。生産者と栽培契約を結び、土づくりの段階からポテトチップスに適した品種の生育に取り組んだといいます。この原料調達の仕組みづくりが、後にカルビーが市場で圧倒的なシェアを獲得する要因の一つになったとされています。

ここまでの流れを年表として整理すると、次のようになります。

年湖池屋カルビー
1949年―松尾糧食工業株式会社として設立
1953年小池和夫が創業―
1955年―社名をカルビーに変更
1958年株式会社として正式設立―
1962年のり塩味のポテトチップスを発売―
1964年―かっぱえびせんを発売
1967年オートフライヤー導入、量産化に成功ニューヨーク国際菓子博覧会に出展
1975年―ポテトチップスを発売
2022年ブランド評価でカルビーを上回る―

こうして並べると、1967年という同じ年に、湖池屋は生産技術での画期を、カルビーは海外展開のきっかけをそれぞれ迎えていたことが分かります。年号が一致しているからこそ、どちらの会社の出来事だったのか記憶が入れ替わりやすいのでしょう。

混同が生まれた理由は同じ1967年に別々の出来事が起きたことです

「1967年 カルビー オートフライヤー」という組み合わせが広まった背景には、いくつかの要因が重なっていると考えられます。

一つ目は、先ほどの年表の通り、湖池屋のオートフライヤー導入という技術面での画期と、カルビーのニューヨーク博覧会出展というマーケティング面での画期が、同じ1967年に別々の企業で起きたことです。時系列の近さが、記憶や記録の中で混ざり合う土壌になった可能性があります。

二つ目は、両社がともにポテトチップスという同じカテゴリーの代表企業であり、しかも市場シェアの1位・2位を争うライバル関係にあることです。カテゴリーの代表企業が実質2社しかない状況では、片方の実績がもう片方の実績として記憶違いされやすくなります。

三つ目は、インターネット上に一次資料の確認を経ないまま作成された二次情報や三次情報が数多く存在することです。検索エンジンや生成AIを使って記事を量産する手法が広がるなかで、事実確認が不十分な記述がそのままコピーされ、あたかも定説であるかのように拡散してしまうケースが見られます。実際に「カルビーが1967年にオートフライヤーを導入した」と明記する個人ブログが検索結果の上位に存在すること自体、この問題を物語っています。企業の歴史やヒット商品の由来を調べる際は、各企業の公式サイトが公開する社史や沿革のページ、信頼できる報道機関の記事など、一次情報に近い媒体で裏付けを取ることが欠かせません。

かっぱえびせんとのり塩、開発のきっかけは対照的です

湖池屋とカルビー、それぞれの歴史を語るうえで欠かせないのが、両社の看板商品がどのように生まれたかというエピソードです。この二つの商品の誕生の経緯を比べると、対照的な面白さがあります。

カルビーの「かっぱえびせん」は、創業者・松尾孝自身の幼少期の記憶が出発点になっています。松尾孝は子どもの頃「えび捕り名人」と呼ばれるほど川えび捕りが得意で、母親が丸ごと素揚げにしてくれた小さなえびの味を好んで食べていたそうです。後年、瀬戸内海で獲れる小えびが天日干しされているのを目にした際、この愛着のあるえびを小麦のあられに練り込めないかという発想が浮かび、試行錯誤の末に1964年、「かっぱえびせん」が発売されました。カルビーには「一人・一研究」という開発哲学があり、一人の担当者がテーマを持って徹底的に研究を重ねる姿勢が、この商品はもちろん、後のポテトチップスや「じゃがりこ」にも受け継がれているといいます。「やめられない、とまらない」のキャッチフレーズは、この長い歴史とともに広く知られるようになりました。

一方、湖池屋の「のり塩」は、創業者・小池和夫がある飲食店で初めてポテトチップスを口にし、その味に感動したことが開発の出発点になったと伝えられています。当時、ポテトチップスといえば単純な塩味が主流でしたが、小池和夫は日本人になじみのある味にしたいと考え、研究を重ねた末に塩と海苔を組み合わせた独自の味付けにたどり着きました。原料選びから生産方法、味付けまであらゆる面で試行錯誤が重ねられ、1962年に「湖池屋ポテトチップス のり塩」が誕生しています。海苔の風味を利かせたこの味付けは、日本人の味覚にポテトチップスを根付かせるうえで大きな役割を果たしました。

一人の担当者の原体験を掘り下げて商品にしたカルビーと、日本人の味覚に合わせることを目的から逆算して味を作り込んだ湖池屋。アプローチは異なりますが、どちらも創業者自身の実感から生まれたロングセラー商品だという点は共通しています。

湖池屋とカルビーのシェアは2022年に評価が逆転しました

ブランド力を評価する調査で湖池屋がカルビーを上回るという逆転現象が起きたのは、2022年のことです。売上規模では依然としてカルビーが優位な場面が多いものの、ブランドイメージや商品の独自性という観点では、湖池屋が存在感を取り戻していることを示す出来事として報じられています。

この逆転に至るまでの道のりを振り返ると、1975年にカルビーが参入したことで、日本のポテトチップス市場は湖池屋とカルビーという二大メーカーが競う構図になりました。カルビーは1976年に「のりしお」、1978年に「コンソメパンチ」を発売するなど次々と定番フレーバーを展開し、フレーバーの多様化と生産体制の強化によってシェアを急速に拡大していきます。ある時点の調査では、カルビーが日本のポテトチップス市場のおよそ7割を占めるまでになったと報告されています。

一方、業界の先駆者だった湖池屋は、特にリーマンショック以降、カルビーが仕掛けた低価格路線の価格競争にさらされ、シェアを奪われて業績が悪化する時期を経験しました。これに対し湖池屋は、安さでは戦わず、こだわり抜いた価値を伝える商品をつくるという方針へ戦略を転換し、プレミアムなポテトチップス路線での再建を図ります。こうした地道な立て直しの末に、2022年のブランド評価逆転にたどり着いたわけです。湖池屋は量産化技術とのり塩による国産ポテトチップスの礎を築いた先駆者であり、カルビーは原料調達の仕組み化とフレーバー展開・価格戦略によって市場を大きく拡大させた後発の強者、という整理ができそうです。

オートフライヤーは連続式フライヤーで2分ほどで揚げ上げます

オートフライヤーとは、大量の食材を連続的かつ均一に揚げ続けることができる自動フライヤーのことです。手作業の調理では鍋の中の油温にムラが出たり、一度に揚げられる量に限界があったりしますが、連続式フライヤーは搬送装置で食材を油の中に一定時間だけ通過させ続けることで、同じ温度・同じ時間の加熱を絶え間なく再現できる点が最大の特長です。

一般的なポテトチップスの製造工程は、産地や品種別に管理されたジャガイモを原料保管庫から取り出し、スライサーで一定の厚みに薄切りにし、表面のでんぷんを落とすために水洗いした後、フライヤーで油に通して揚げるという流れになります。連続式のオートフライヤーでは、切ったジャガイモをおよそ2分程度で揚げ上げるのが一般的です。揚げ終えたポテトチップスは、色彩を機械で識別する装置と人の目視の両方によって焦げなどの不良品が取り除かれ、シーズニング工程で塩やのり、コンソメといった味付けが施されて製品になります。

連続式フライヤーには、食材の搬送方式によって「ネット式」「揺動式」「パドル式」「バーコンベア式」「プレートコンベア式」といった複数のタイプがあります。湖池屋が1967年に開発した独自のオートフライヤーも、こうした連続搬送・連続加熱という基本原理をベースにしつつ、日本のジャガイモの品質や手揚げに近い食感を再現するための工夫を重ねて実用化されたものと考えられます。アメリカの機械をそのまま輸入したのではなく、国内の技術者やメーカーと協力しながら日本向けに作り込んだ点に、この開発の価値があります。

ポテトチップスの起源はアメリカの1件のクレームだったという説があります

ポテトチップスという食べ物自体の起源は、日本ではなくアメリカにあります。よく知られているのは、19世紀半ばのアメリカのレストランで、フライドポテトが厚すぎるという客の苦情がきっかけになったという説です。厚みへの不満に応えるため、フォークで刺せないほど薄く切ったジャガイモを揚げて出したところ、逆に評判を呼んだというエピソードが語り継がれています。この薄切りの揚げ物が、ポテトチップスの原型になったとされます。

もっとも、このクレーム対応のエピソードは最も広く知られた説ではあるものの、事実だと確定しているわけではなく、後世に作られた逸話ではないかと指摘する声もあります。発祥のエピソード自体に不確かな部分が残っているという点は、今回の「1967年 カルビー オートフライヤー」をめぐる混同とも少し重なる話かもしれません。誕生からおよそ100年を経て太平洋を渡ったポテトチップスが、日本でどう根付いていったのかが、ここまで見てきた湖池屋とカルビーの歩みです。

日本のポテトチップスは1948年のGHQ向け生産から始まりました

湖池屋やカルビーが参入する以前にも、日本にポテトチップスそのものは存在していました。記録によれば、昭和23年、西暦でいう1948年頃、GHQの要望を受けて国内でポテトチップスの生産が入札制で行われるようになり、当時作られたポテトチップスの多くは進駐軍向けに納入されていたとされています。戦後まもない時期のポテトチップスは、一般の日本人が日常的に口にする菓子ではなく、進駐軍関係者向けの特殊な商品という位置づけでした。

その後、1956年には濱田音四郎という人物がハワイでポテトチップスの製法を学び、帰国後に「フラ印ポテトチップス」として国内での販売を開始したという記録も残っています。こうした個別の取り組みはあったものの、この段階ではまだ全国規模の大量生産や大量流通には至っていませんでした。

日本のポテトチップスが一部の人が知る珍しい菓子から、量産され全国のどこでも買える菓子へと変わる大きな転機となったのは、1960年代の湖池屋の取り組みです。1962年に「のり塩味」で日本人の味覚に合うポテトチップスを完成させて人気に火をつけ、続く1967年のオートフライヤー導入で、量産体制という作る側の課題を解決しました。この二段階の革新があって初めて、ポテトチップスは日本社会に本格的に根付いていったといえるでしょう。

改めて整理すると、「1967年 カルビー オートフライヤー」というキーワードの背後には、日本のポテトチップスの歴史における二つの異なる出来事が混同されている実態があります。1967年にオートフライヤーで量産化を成功させたのは湖池屋であり、同じ年のカルビーはニューヨークでかっぱえびせんを出展し、ポテトチップス事業への着想を得たにとどまります。カルビーが実際にポテトチップスを発売したのは1975年、湖池屋の量産化成功から8年後のことでした。元祖や発祥をめぐる情報は、複数の企業や商品が絡むほど混同が生じやすいものです。年号やキーワードが一致していても、主語となる企業を取り違えている情報は少なくありません。ブログ記事やSNSの投稿をそのまま信じず、企業の公式サイトが公開する沿革情報のような一次資料にあたって確認する習慣が、正確な理解への近道になります。

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