土用の丑の日にうなぎを食べる由来は平賀源内の発案説

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土用の丑の日にうなぎを食べる習慣は、江戸時代の博学者だった平賀源内が発案したという説が、今も広く語り継がれています。夏場に売り上げが落ちていたうなぎ屋から相談を受けた源内が、店先に「本日丑の日」という張り紙を出すよう勧めたところ大当たりし、この風習が江戸の町に定着したという逸話です。ただし史料での裏付けは薄く、春木屋善兵衛説や大田南畝説など、由来を語る説はほかにもあります。ここでは発案説の中身と平賀源内という人物、うなぎ食文化がどこまで遡れるかを具体的に見ていきます。2026年の夏、うなぎを食べる機会は7月26日の1日だけです。

目次

2026年の夏の土用の丑の日は7月26日の1回のみ

土用は年に4回巡ってくる暦の期間で、季節の変わり目ごとに約18日間続きます。このうち丑の日と重なる日が「土用の丑の日」と呼ばれる仕組みです。2026年の場合、冬の土用の丑の日は1月27日でした(火曜日)。春の土用では丑の日が2回巡り、4月21日(火曜日)と5月3日(日曜日)が該当しました。夏の土用の丑の日は7月26日(日曜日)で、秋の土用の丑の日は10月30日(金曜日)です。

季節土用の丑の日曜日
1月27日火曜日
春(一の丑)4月21日火曜日
春(二の丑)5月3日日曜日
7月26日日曜日
10月30日金曜日

一般に「土用の丑の日」といえば夏を指すことがほとんどで、2026年の夏の土用は7月20日ごろから8月6日ごろまでの期間にあたります。丑の日は十二支を日付にあてはめたもので12日周期のため、約18日ある土用の期間に丑の日が1回だけの年と、2回巡ってくる年に分かれます。1回目を一の丑、2回目を二の丑と呼びますが、2026年の夏は丑の日が1回しか巡ってこないため二の丑は存在しません。うなぎを食べる予定を立てるなら、7月26日が唯一の機会になります。

なお春の土用のように丑の日が2回巡る年には、一の丑と二の丑の両方でうなぎを食べる家庭や店舗も見られますが、夏の土用ほど広く定着した風習ではありません。土用の丑の日にうなぎを食べる文化がもっとも根強いのは、やはり夏です。

土用は五行思想、丑の日は十二支に由来する暦の仕組み

「土用」は、中国から伝わった五行思想に基づく暦の考え方です。五行思想とは、木・火・土・金・水の五つの要素であらゆる事象を説明する考え方で、春は木、夏は火、秋は金、冬は水にそれぞれ配当されます。余った「土」の要素は、立春・立夏・立秋・立冬の直前約18日間に割りあてられました。これが土用で、年に4回存在します。

一方の丑の日は、日付を十二支(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥)で数える方式に由来します。十二支は年だけでなく日にも順番に割り振られており、12日で一巡します。土用の期間と丑の日の巡りを重ね合わせることで、土用の丑の日という特定の日が決まる仕組みです。この暦の計算方法自体は江戸時代よりずっと古くからあり、土用の丑の日という呼び方そのものは、もともとうなぎとは無関係な暦の用語でした。

平賀源内は「本日丑の日」の張り紙をうなぎ屋に勧めた

土用の丑の日とうなぎを結びつけた逸話でもっとも知られているのが、江戸時代中期の博学者だった平賀源内による発案説です。内容はおおむね次のように伝わっています。

夏場はうなぎの味が落ちるとされ、うなぎ屋の売り上げが伸び悩んでいました。困った店主が知人の平賀源内に相談したところ、源内は「本日丑の日」という張り紙を店先に出すよう提案します。もともと「丑の日に『う』の付くものを食べると夏負けしない」という言い伝えが庶民のあいだにあったため、この語呂合わせを利用したキャッチコピーは大当たりし、その店は繁盛したといいます。評判を聞いた周辺のうなぎ屋も同じ宣伝文句を真似るようになり、土用の丑の日にうなぎを食べるという習慣が江戸の町全体、さらには日本全国へ広まっていった、というのがこの説のあらすじです。

現代でいうキャッチコピーの先駆けとして紹介されることも多く、単なる語呂合わせにとどまらず、丑の日にうなぎを食べると夏負けしないというもっともらしい健康効果への期待を組み合わせた点が、宣伝文句として優れていたと評価されています。

平賀源内は本草学者、蘭学者、発明家として100種以上を手がけた

この逸話を理解するには、平賀源内という人物を押さえておく必要があります。源内は享保13年、讃岐国寒川郡志度浦、現在の香川県さぬき市志度に生まれました。本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家など、実に多様な顔を持つ人物で、江戸時代を代表する才人として知られています。

寛延2年、21歳の源内は父の死去にともない高松藩に仕え、蔵番として米の貯蔵庫を管理しました。その後、藩主・松平頼恭に才能を見出され、鎖国下の日本で西洋の学問や文化に直接触れられる長崎への留学を許されます。宝暦4年には藩の仕事を辞して家督を放棄し、江戸に出て本草学者の田村藍水に弟子入りしました。

江戸に出てからの源内は精力的に活動し、当時貴重品だった朝鮮人参や砂糖の国内生産に挑戦したり、各地の薬草や鉱物を集める物産会を主催したりと、殖産興業にも力を入れます。発明家としての業績も多く、オランダ製の静電気発生装置エレキテルの復元や、燃えない布である火浣布の開発が特に知られており、生涯に手がけた発明品は100種以上にのぼるとされます。柔軟な発想力とプロデュース能力を持つ源内であれば、うなぎ屋の売り上げ不振という相談に独創的な解決策を示したとしても不思議ではありません。

源内の最期は波乱に満ちています。安永8年、ある大名屋敷の工事を請け負った際、酔った勢いで設計図を盗まれたと勘違いし、大工を殺傷する事件を起こしました。投獄された源内は間もなく破傷風を患い、同年12月18日、西暦では1780年1月24日にあたる日に51歳でその生涯を閉じています。

発案説を裏付ける一次史料は見つかっていない

ここで押さえておきたいのが、平賀源内が発案したという逸話には、確たる一次史料の裏付けが乏しいという点です。江戸時代の随筆『明和誌』に記されていると説明されることがありますが、実際には明和誌にそうした記述は見当たらないという指摘があります。平賀源内自身の著作や、同時代人による確実な記録のなかにも、この逸話を直接裏付けるものは確認されていません。

つまり平賀源内発案説は、後世に語り継がれる過程で形作られていった言い伝えとしての性格が強く、史実として完全に立証された話ではないというのが実情です。とはいえ源内が江戸で幅広い人脈を持ち、殖産興業やキャッチコピー的な発想を得意としていたことは事実であり、彼のキャラクターと逸話の内容が合致していることから、広く語り継がれてきたのでしょう。

春木屋善兵衛説と大田南畝説も由来として伝わる

平賀源内説のほかにも、土用の丑の日とうなぎを結びつける説はいくつかあります。代表的なのが春木屋善兵衛説と、蜀山人こと大田南畝の説です。

春木屋善兵衛説は、うなぎ屋の店主だった春木屋善兵衛にまつわる話です。土用の時期に大量のうなぎの蒲焼の注文を受けた春木屋が、子の日・丑の日・寅の日の3日間に分けて調理し、それぞれ土甕に入れて保存したところ、丑の日に作ったものだけが傷まずに残っていました。この経験から、丑の日に作ったうなぎは長持ちする、ひいては丑の日にうなぎを食べるとよい、という認識が広まったとされます。

大田南畝説は、狂歌師として知られた蜀山人こと大田南畝が、丑の日に鰻を食べると薬になるという内容の狂歌をキャッチコピーとして考案したという説です。天保10年ごろに成立したとされる『天保佳話』にこの逸話が記されているという説明も見られますが、実際には天保佳話にそのような記載はなく、大田南畝自身の作品集『紅梅集』に収められた狂歌や狂詩にも、土用の丑の日と直接結びつく作品は見当たらないという指摘があります。

こう見ていくと、源内説も南畝説も、比較的新しい時代になってから形作られた伝説である可能性が高いとする研究者の見方もあります。どの説が史実として正しいかを完全に確定させることは難しいものの、共通しているのは、いずれも江戸時代のうなぎ屋が夏場の売り上げ不振を打開するために何らかの工夫や宣伝文句を用いた、という骨格を持っている点です。商売の知恵として生まれた風習が時代を超えて現代にまで定着したという構図は、どの説を採用しても変わりません。

「う」の付く食べ物を食べる風習は源内より古い

興味深いのは、丑の日に「う」の付く食べ物を食べるという言い伝え自体が、平賀源内が活躍した時代よりもさらに古くから存在していたとされる点です。うなぎだけでなく、瓜やうどん、梅干しなど「う」から始まる食べ物を食べると夏負けしない、体調を崩さないという民間信仰が、江戸庶民のあいだに広く根づいていました。

平賀源内、あるいは他の発案者は、この既存の言い伝えをうまく利用し、うなぎという「う」の付く食べ物の代表格を前面に押し出すことで、うなぎ屋の商売と結びつけたと考えられます。新しい習慣をゼロから作り出したのではなく、すでに庶民の生活に根づいていた土着の信仰に、うなぎという具体的な商品を接続させた点が、このアイデアの巧みさだったといえるでしょう。

うなぎを食べる文化は奈良時代の万葉集まで遡る

うなぎを夏バテ予防の食材として食べる習慣そのものは、江戸時代よりはるかに古くまで遡ることができます。奈良時代の天平年間に成立したとされる日本最古の和歌集『万葉集』には、歌人の大伴家持が詠んだ次のような歌が収められています。

「石麻呂に 吾れもの申す 夏痩せに よしといふものぞ 鰻とり食(め)せ」

石麻呂という痩せた友人に向けて、夏痩せに良いというからうなぎを取って食べなさい、と勧める内容の歌です。少なくとも1200年以上前の奈良時代には、うなぎが夏バテや夏痩せに良い食べ物として認識されていたことが、この歌からわかります。江戸時代の平賀源内、あるいは他の発案者が生み出したのは、あくまで土用の丑の日という特定の日にうなぎを食べるという習慣であり、うなぎ自体が夏の滋養強壮食として重宝されてきた歴史は、それよりずっと古くから存在していたことになります。

うなぎのビタミンAとビタミンB1が夏場の栄養補給に役立つ

うなぎが夏場の食材として長く支持されてきた背景には、栄養面の特徴もあります。うなぎにはたんぱく質や脂質に加え、ビタミンやミネラル類が豊富に含まれており、なかでもビタミンAの含有量は魚類のなかでもトップクラスとされます。ビタミンAには抗酸化に関わる働きがあり、免疫の働きを支える栄養素です。うなぎを100グラム食べるだけで、成人が1日に推奨されるビタミンA摂取量にほぼ達するともいわれています。

さらにうなぎには、疲労回復に関わるとされるビタミンB1も含まれています。夏場は発汗によってビタミンB1が失われやすく、これが夏バテの一因になるとされるため、補給できるうなぎは理にかなった食材といえます。江戸時代の人々が経験的に感じ取っていた、うなぎは夏に良いという認識は、現代の栄養学から見ても納得できるものです。

シラスウナギの高騰と2025年から2026年にかけての価格動向

現代のうなぎを取り巻く状況にも触れておきます。近年、うなぎは高級食材というイメージが強まっていますが、その背景にはニホンウナギの資源状況の問題があります。日本で流通するうなぎの大半は養殖ものですが、その実態は海から獲ってきた稚魚、シラスウナギを池で育てる方式であり、卵から成魚まで人工的に育てる完全養殖とは異なります。シラスウナギの漁獲量は年によって大きく変動し、不漁が続くと稚魚の取引価格が高騰し、うな重や蒲焼の小売価格にも影響が及びます。

近年ではシラスウナギの取引価格が1キログラムあたり200万円を超えた年もありましたが、2025年から2026年の漁期にかけては比較的豊漁の傾向が見られ、稚魚の取引価格は前年に比べて大きく下落したと伝えられています。もっとも、稚魚価格の下落が消費者向けのうなぎ料理の値下げにすぐ反映されるわけではなく、卸値が下がっても小売価格は高止まりが続く傾向もあるようです。養殖から出荷まで一定の期間を要することや、流通コストと人件費の上昇分が価格に織り込まれていることなど、複数の要因が絡み合っているためと考えられます。

完全養殖は研究段階、商業化にはまだ時間がかかる

ニホンウナギを卵から人工的に育てて再び卵を産ませるところまで一貫して行う完全養殖の技術開発も進められています。研究機関レベルでは技術的に完全養殖が可能になりつつあるものの、仔魚の生存率の低さや、育成に必要な餌の安定供給といった技術的な壁が残っており、商業ベースでの本格的な普及にはまだ時間がかかると見られています。天然の稚魚に依存する現在の養殖方式には資源枯渇のリスクが指摘されており、うなぎ食文化を将来にわたって持続させるうえで、完全養殖技術の確立は重要な課題です。

うどんや梅干し、瓜類もうなぎと並ぶ土用の行事食

平賀源内の逸話ではうなぎばかりが注目されがちですが、もともと丑の日には「う」の付く食べ物を食べると夏負けしないという言い伝えがあり、うなぎ以外にもさまざまな行事食があります。代表的なものがうどんです。うどんは消化が良く栄養価も高いため、暑さで食欲が落ちやすい夏場の食事として適しているとされ、うなぎが高価で手が出しにくい家庭でも取り入れやすい行事食として親しまれてきました。

梅干しも「う」の付く代表的な食べ物です。梅干しに含まれるクエン酸には疲労回復や食欲増進に関わるとされる働きがあり、夏バテ防止の知恵として古くから食卓にのぼってきました。さらに胡瓜、西瓜、南瓜、冬瓜、苦瓜といった瓜類も、土用の丑の日に食べるとよいとされる食材群です。これらは夏が旬で栄養価が高いだけでなく、体の熱を取り除いたり利尿作用によって体内のバランスを整えたりする働きがあるとされ、江戸時代以前から夏の体調管理に役立てられてきました。

こうして見ると、土用の丑の日にうなぎという組み合わせは、もともと存在した「う」の付く食べ物全般を食べるという幅広い風習のなかから、うなぎという一つの食材が商業的な成功を収め、突出して定着していった結果だといえます。

丑湯や土用干しも土用の丑の日にまつわる風習

食べ物以外にも、土用の丑の日にまつわる風習はいくつか残っています。その一つが丑湯で、桃の葉などの薬草を入れた風呂に入り、疲労回復と無病息災を願う習わしです。桃の葉には汗疹やかぶれを鎮める働きがあるとされ、夏場の肌トラブル対策としても理にかなっていました。

もう一つ、土用干しと呼ばれる風習も知られています。梅雨の時期に湿った衣類や書物、調度品を、晴天が続く土用の時期に虫干しする習慣です。あわせて、梅雨時に漬け込んだ梅を土用の頃のよく晴れた日に数日間天日で干して仕上げる梅の土用干しも、この時期ならではの生活の知恵として広く行われてきました。うなぎを食べるという行為も、こうした季節の節目を意識したさまざまな生活習慣の一つだったとわかります。

関東は背開きで蒸してから焼き、関西は腹開きで蒸さず焼く

土用の丑の日に食べるうなぎの蒲焼にも、地域による違いがあります。うなぎの開き方は、関東風が背開き、関西風が腹開きというのが代表的な違いです。関東は武家文化の影響が強く、うなぎの腹を開くことが切腹を連想させ縁起が悪いとされたため、背開きが定着したという説があります。一方、商人文化が根づいていた関西では「腹を割って話す」という発想と結びつき、腹開きが好まれるようになったといわれています。

調理方法にも明確な違いがあります。関東風は白焼きにしたうなぎを一度蒸してからタレをつけて焼き上げます。蒸す工程を挟むことで余分な脂が落ち、身がふっくらとしてタレも染み込みやすくなります。対して関西風は蒸す工程を経ずにじっくりと焼き上げるため、外側は香ばしくパリッとした食感になり、中はジューシーに仕上がるのが特徴です。串の使い方にも違いがあり、関東風は竹串、関西風は金串を用いることが多いとされます。さらに関東風は頭を落としてから焼くのに対し、関西風は頭をつけたまま焼き、最後に落とすという調理工程の違いも見られます。

項目関東風関西風
開き方背開き腹開き
蒸し工程ありなし
竹串金串
頭を落とす順番先に落とす最後に落とす
食感ふっくら香ばしくパリッと

こうした地域差からは、平賀源内が活躍した江戸だけでなく、日本各地でうなぎ食文化がそれぞれ独自に発展してきたことがわかります。同じ土用の丑の日にうなぎを食べる習慣であっても、地域ごとの食文化や職人の技によって仕上がりが大きく異なる点も、うなぎという食材の奥深いところです。

江戸庶民にとってうなぎは串焼きで16文、蒲焼一皿で200文前後だった

平賀源内の逸話を理解するうえで見落とせないのが、江戸時代を通じてうなぎが一貫して高級品だったという事実です。江戸時代中期になると、屋台で手軽に食べられるファストフードとして蒲焼が庶民のあいだで人気を集めるようになりました。1700年頃には上方で、現在のように身を開いた形の蒲焼を売る露店が登場し、その約20年後には江戸の文献にも同様の記述が見られるようになります。江戸後期には関東の千葉・流山周辺でみりんの生産量が増え、これが醤油と組み合わされて蒲焼のタレに使われるようになったことで、江戸庶民を魅了する甘辛い味わいが確立し、蒲焼を扱う店も一気に増えていきました。

とはいえ、うなぎ飯を一杯まるごと注文すると64文、現在の価値でおよそ1920円程度かかり、日常的に気軽に食べられる値段ではなかったとされます。庶民が実際によく口にしていたのは、屋台で売られていた一串16文、現在の価値で約480円程度の手頃な串焼きでした。うなぎの蒲焼を一皿きちんと注文すれば200文前後、現在の価格に換算すると4000円前後にもなったという記録もあり、うなぎは江戸時代を通じて庶民にとって特別な日のごちそうという位置づけだったとうかがえます。

このような背景を踏まえると、平賀源内の逸話がなぜこれほど効果的だったのかが理解しやすくなります。もともと高価で特別な食べ物だったうなぎに、丑の日に食べると夏負けしないという語呂合わせと健康効果への期待を組み合わせることで、値は張るが体のために奮発する価値のある特別な一皿という付加価値が生まれました。値引きセールとは正反対の発想であり、高級品としてのうなぎの価値を保ったまま、年に一度の特別な行事食として庶民の消費行動を後押しする、優れたブランディング戦略だったといえます。現代のうなぎが今もハレの日のごちそうとして扱われている背景には、江戸時代から続くこうした価値づけの延長があるのでしょう。

醤油とみりんを使った甘辛いタレは江戸中期に確立した

平賀源内が活躍した江戸時代は、うなぎの調理法そのものが大きく発展していった時期でもあります。うなぎを開いて中骨を取り除き、串を打って焼くという現在に通じる調理方法が確立されたのはおよそ1700年頃とされますが、当初の味付けは味噌や酢が中心で、現在のような醤油ベースの甘辛いタレはまだ一般的ではありませんでした。醤油を用いた蒲焼が広まった背景には、下総国の野田や銚子で製造される、いわゆる関東醤油の普及があるとされます。良質な濃口醤油が江戸の町に安定して流通するようになったことで、醤油・みりん・砂糖・酒を組み合わせた濃厚なタレが生まれ、蒲焼の味わいを決定づけていきました。享保13年に刊行された料理書『料理網目調味抄』には、すでに醤油や酒を用いた調理法が記されており、この年は平賀源内が生まれた年と重なります。源内が活躍した時代は、現在の蒲焼の原型が確立されつつあった時期と重なっているわけです。

老舗のうなぎ店では、この醤油ベースのタレを継ぎ足しながら使い続ける文化が今も残っています。焼く際にうなぎの脂や身の旨みがタレに溶け込み、使い続けるほどに味わいが深まっていくため、代々受け継がれてきたタレ壺を大切に守り続ける店は少なくありません。火事の際には何をおいてもタレ壺を持ち出したという逸話が伝わるほど、タレは老舗にとって店の歴史そのものといえる存在です。江戸時代に生まれた工夫が令和の時代まで受け継がれている点からも、うなぎ文化の奥深さが伝わってきます。

令和のうなぎ商戦、約7割が土用の丑の日にうなぎを食べたいと回答

平賀源内の時代から二百数十年を経た現在も、土用の丑の日は日本人にとって特別な食のイベントであり続けています。ある調査では、物価高が続く状況でも約7割が「土用の丑の日にうなぎを食べたい」と回答しており、うなぎを食べて元気を実感すると答えた人も約半数にのぼるなど、根強い人気がうかがえます。食べたいタイミングについては当日が最も多く、次いで当日の前後2〜3日以内と回答した人が多くなっています。食べる場所は自宅が圧倒的多数を占め、家族と一緒に食べたいと答えた人も多く、土用の丑の日が家庭の食卓を囲む季節行事として定着していることがわかります。

流通の現場でも変化が見られます。かつては専門店やスーパーの店頭で当日に買い求めるスタイルが一般的でしたが、近年はコンビニエンスストアやネットスーパーによるオンライン予約が急速に伸びています。大手コンビニチェーンではオンライン予約の件数が前年から大きく増加したと報告されており、国産うなぎを使った本格的なうな重に加え、牛肉や海老天を使った代替商品、巻き寿司、土用餅など、うなぎ以外の土用の丑の日商品も幅広く展開されるようになっています。購入時に消費者が重視するポイントとしては、うなぎの大きさや厚み、そして産地が上位に挙げられており、価格が上昇するなかでも品質や国産へのこだわりを重視する傾向がうかがえます。江戸時代にうなぎ屋の店先に張られた一枚の張り紙から始まったとされる風習が、令和の時代にはオンライン予約という形で受け継がれている点は興味深いところです。

江戸の商魂と奈良時代からの経験知が結びついて今の習慣ができた

土用の丑の日にうなぎを食べる習慣は、江戸時代の博学な人物である平賀源内が、夏場に売り上げが落ち込むうなぎ屋のために「本日丑の日」というキャッチコピーを考案したという逸話がもっともよく知られています。もっとも、この逸話を直接裏付ける確実な一次史料は見つかっておらず、春木屋善兵衛説や大田南畝説といった他の説も存在し、史実として完全に確定しているわけではありません。しかし、いずれの説にも共通するのは、江戸時代の商人たちがすでに庶民のあいだにあった「丑の日に『う』の付くものを食べると夏負けしない」という言い伝えを巧みに利用し、うなぎという具体的な商品と結びつけて広めたという構図です。

さらにさかのぼれば、うなぎを夏の滋養強壮食として食べる文化そのものは奈良時代の万葉集にまで遡ることができ、江戸の商魂とそれよりずっと古い時代からの経験知が組み合わさって、現在まで続く土用の丑の日にうなぎという国民的な習慣が形作られてきたといえます。2026年の夏の土用の丑の日は7月26日の一日だけです。稚魚の資源事情や価格動向にも注目しつつ、江戸時代から続くこの風習の背景を知ったうえでうなぎを味わうと、違った楽しみ方ができるのではないでしょうか。

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