肉じゃがは東郷平八郎の発案という逸話、その歴史を検証する

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肉じゃがは、牛肉やじゃがいもを醤油と砂糖・みりんで甘辛く煮込んだ、日本の家庭料理を代表する一品です。ある調査では「わが家の代表的な家庭料理」の第1位に肉じゃがが選ばれ、その割合は33パーセントに達し、2位のカレー、3位の味噌汁を引き離しています。この料理を巡っては、日本海海戦の指揮官として知られる海軍軍人・東郷平八郎が発案したという逸話が長年語られてきましたが、近年の検証では、史実というより地域おこしのために整えられた物語だとみられています。ここでは、発案の逸話がどのように生まれ、舞鶴と呉という二つの街でどう広まり、史料と照らすとどこまで裏付けられるのかを、できるだけ具体的な年代とともに整理します。

目次

東郷平八郎はイギリス留学中にビーフシチューの味を持ち帰ったとされる

東郷平八郎は、明治4年から明治11年までの約7年間をイギリスで過ごした経験を持つ海軍軍人で、この留学経験が後の肉じゃがの発案という逸話に結びつきます。東郷は弘化4年12月22日、西暦では1848年1月27日に、薩摩国鹿児島城下で薩摩藩士・東郷実友の四男として生まれました。幼名は仲五郎といいます。文久3年の薩英戦争が初陣で、その後の戊辰戦争では春日丸に乗り組み、新潟や箱館まで転戦して阿波沖海戦や宮古湾海戦を経験しています。若い頃から実戦の場数を踏んだ軍人だったことがわかります。

薩英戦争から戊辰戦争まで、東郷は10代で実戦を経験した

薩英戦争に従軍した当時、東郷はまだ10代でした。戊辰戦争の転戦を経て海軍軍人としての基礎を築き、その後の留学と海軍でのキャリアにつながっていきます。日清戦争では巡洋艦「浪速」の艦長として出征し、清国兵を乗せたイギリス船籍の商船「高陞号」を国際公法に基づいて撃沈する判断を下したことでも知られています。

ポーツマスで過ごした7年間が肉じゃが伝説の舞台になった

明治4年から明治11年にかけて、東郷はイギリスへ官費留学しました。当初は王立海軍兵学校への入学を希望していましたが、年齢制限や機密情報漏洩への懸念から入学を断られ、最終的にはポーツマスの商船学校であるウースター協会、いわゆるHMSウースターで国際法などを幅広く学ぶことになりました。この約7年間に及ぶイギリス滞在こそが、後に語られる肉じゃがの発案という逸話の舞台です。帰国後の東郷は海軍軍人としてのキャリアを積み重ね、明治38年5月27日には対馬沖でロシアのバルチック艦隊を迎え撃ちます。仮装巡洋艦「信濃丸」からの「敵艦見ゆ」の警報を受けて出撃した連合艦隊は、丁字戦法によってバルチック艦隊をほぼ壊滅させ、東郷は「東洋のネルソン」とまで称される名声を得ました。

肉じゃがの発案という逸話はビーフシチューの代用から生まれたとされる

肉じゃがの発案という逸話は、おおむね次のような筋書きで語られています。イギリス留学時代、ポーツマスに滞在していた東郷平八郎は、現地でビーフシチューを食べてその味に感動しました。帰国後、海軍の艦上食としてこのビーフシチューを再現させようと、料理長や主計士官に命じたといいます。ところが当時の日本ではデミグラスソースやバター、赤ワインといった材料が容易に手に入りませんでした。そこで料理長は、東郷から伝え聞いた「茶色い煮込み料理」というおおまかな情報だけを頼りに、手元にある醤油と酒、砂糖といった和風の調味料で代用の一品を作り上げます。これが牛肉とじゃがいもを甘辛く煮た料理となり、後の肉じゃがの原型になった、というのがこの逸話の骨子です。この逸話には、東郷が海軍のどの拠点に赴任していた時期の出来事なのかをめぐって、舞鶴を舞台とするものと呉を舞台とするものの二つのバージョンが存在します。

舞鶴と呉が「発祥の地」を競う二つの逸話に分かれている

舞鶴と呉はいずれも「肉じゃが発祥の地」を公式に名乗っており、現在に至るまで決着のつかない論争が続いています。両市の主張は対立というより、地域色を活かした「ご当地肉じゃが」としての違いを打ち出す方向に進んでいます。

舞鶴説は海軍厨業管理教科書と町おこし運動から広まった

舞鶴説によれば、東郷平八郎が舞鶴鎮守府の初代司令長官に任命された際、イギリス留学中に食したビーフシチューの味が忘れられず、艦上食として再現するよう料理長に命じたことが肉じゃが誕生のきっかけになったとされます。舞鶴には旧海軍の施設であった図書館に「海軍厨業管理教科書」という料理教科書が保管されており、肉じゃがの作り方に類する記述が見られるといいます。この教科書は国内で舞鶴にしか現存していないとされ、舞鶴を発祥の地とする根拠の一つになっています。

この説を全国に広める契機となったのが、「まいづる肉じゃがまつり」という町おこしイベントです。平成7年春、舞鶴市内の看板デザイナーだった清水孝夫が、まつりの開催を提唱したのが始まりとされています。同年1月には阪神・淡路大震災が発生し、オウム真理教をめぐる事件も社会を揺るがしていた時期で、市民の間には先行きへの不安が広がっていました。清水は肉じゃがを軸にした町おこしで地域を元気づけようと考え、周囲に趣旨を説いて賛同者を募ります。同年6月には約30名の市民有志が集まり、「まいづる肉じゃがまつり実行委員会」が結成されました。この委員会は現在も活動を続け、旧海軍厨業管理教科書のレシピをもとにした「元祖まいづる肉じゃが」を再現しています。2025年には「肉じゃが発祥の地」宣言から30周年を迎えたことも報じられました。

呉説は東郷が参謀を務めた明治23年にさかのぼる

呉説は、東郷平八郎が舞鶴に赴任する約10年前、参謀として呉鎮守府に在籍していた時期があったことに着目します。呉側の主張では、ビーフシチューの再現を料理長に命じたのはこの呉在任中の出来事であり、舞鶴での逸話はその後日談に過ぎないというものです。呉市は明治期から海軍の一大拠点で、後には呉海軍工廠として戦艦「大和」の建造地としても知られる、日本近代海軍史における重要な軍港の街でした。

具体的には、東郷は明治11年に海軍中尉に任官した後、明治23年に呉鎮守府参謀長を務めたという経歴が伝わっています。舞鶴鎮守府司令長官への就任が明治34年であることを踏まえると、呉での勤務はそれよりおよそ11年ほど前にあたります。呉説はこの明治23年前後の時期にビーフシチュー再現の逸話が生まれたと主張しており、時系列としては舞鶴説よりも早い段階の出来事として位置づけています。呉における町おこし活動は、平成9年に結成された「呉肉じゃがクラブ」を中心に進められました。同クラブも旧海軍の「海軍厨業管理教科書」に記されたレシピをもとにPR活動を展開し、平成10年3月、呉市は正式に「肉じゃが発祥の地」を宣言しています。

舞鶴と呉のご当地肉じゃがはじゃがいもの品種で味わいが分かれる

舞鶴の肉じゃがと呉の肉じゃがは、同じ料理でありながら使う食材に地域差があります。もっとも大きな違いはじゃがいもの品種で、舞鶴は男爵薯、呉はメークインを使います。牛肉、じゃがいも、しらたき、玉ねぎというシンプルな構成のなかにも、地域ごとの個性が息づいていることがわかります。

項目舞鶴のご当地肉じゃが呉のご当地肉じゃが
じゃがいもの品種男爵薯メークイン
食感の特徴ほっくりと崩れやすい煮崩れしにくい
発祥宣言の年平成7年平成10年3月
中心となった団体まいづる肉じゃがまつり実行委員会呉肉じゃがクラブ

農林水産省の「うちの郷土料理」データベースにも「呉の肉じゃが」が広島県の郷土料理として紹介されており、地域の食文化としての位置づけが公的にも認知されています。

肉じゃがの発案という逸話は明治24年の海軍規則と矛盾する

ここまで紹介してきた東郷平八郎による発案の逸話は、長年テレビや書籍などでも紹介されてきた人気の高いエピソードです。しかし近年の調査によって、この逸話には創作の色合いが強いとする見方が有力になっています。

最大の論拠は、舞鶴における「肉じゃが発祥の地」宣言そのものの成立過程にあります。この宣言は平成7年に町おこしを目的として結成された「まいづる肉じゃがまつり実行委員会」によって広められたもので、中心人物だった清水孝夫が、地域活性化のためのストーリーとして東郷平八郎の逸話を組み立てたとみられています。東郷が肉じゃがを発案したという話自体、史実の記録から発見されたものというより、町おこしのシンボルとして後年に整えられた物語である疑いが強いということです。

さらに決定的とされるのが、時系列の矛盾です。日本海軍には明治24年に定められた「五等厨夫教育規則」という規則があり、そのなかにすでにビーフシチューの調理法が掲載されていたことが確認されています。東郷平八郎が舞鶴鎮守府の初代司令長官に就任したのは明治34年で、明治24年の時点ではまだ舞鶴に赴任していません。東郷が「初めてビーフシチューを海軍に伝えた」という逸話の前提そのものが、史料上は成立しにくいことになります。ビーフシチューは東郷の舞鶴赴任以前から、海軍の教育規則のなかで調理法が体系化されていた洋食メニューの一つでした。こうした事実を踏まえると、肉じゃがという料理は東郷平八郎という一人の人物の思いつきから生まれたというより、明治期の日本海軍が西洋料理を軍隊食として取り入れ、日本人の口に合うよう改良していく過程で、自然発生的に形作られていった料理だと考えられます。

肉じゃがは海軍食から家庭の味へ、除隊兵士を通じて全国に広まった

逸話の真偽はさておき、肉じゃがという料理が日本海軍という組織を経由して全国に広まっていったという流れには一定の説得力があります。当時の海軍には全国から徴募された若者たちが集められ、共同生活を送りながら軍隊食を口にしていました。彼らは除隊後にそれぞれの故郷へ帰り、艦上で慣れ親しんだ料理の記憶や調理法を家庭や地域に持ち帰ったようです。海軍の主計科では西洋料理を和風にアレンジした献立が数多く生み出されており、肉じゃがはそうした「海軍発祥の和風洋食」の代表例の一つとして語られることが多い料理です。カレーライスも同様に海軍が全国普及の一翼を担った料理として知られており、肉じゃがとカレーは海軍食という共通のルーツを持つ料理として並べて紹介されることがあります。

肉じゃがという料理名は昭和40年代の女性雑誌を通じて定着した

肉じゃがという料理名そのものが一般家庭に定着し、現在のような国民的おかずとしての地位を確立したのは、それほど古い時代のことではないとされます。「肉じゃが」という呼び名を冠したレシピが女性雑誌などで紹介され、家庭料理として広く普及していったのは昭和40年代だったという指摘があります。それ以前にも牛肉とじゃがいもの煮物に類する料理は各地で作られていたと考えられますが、「肉じゃが」という統一的な名称のもとで全国の家庭に浸透していったのは、高度経済成長期以降のことだったといえます。

東郷は舞鶴にわずか2年ほど在任していた

東郷平八郎が舞鶴鎮守府の初代司令長官に任命されたのは明治34年10月1日、舞鶴鎮守府が開庁したのと同じタイミングでした。日本海を挟んで対峙するロシアのウラジオストク軍港に備え、日本海側の軍港である舞鶴の整備が急務だったという事情があります。東郷は舞鶴に約2年間在任した後、明治36年に連合艦隊司令長官へ転じ、翌明治38年5月27日の日本海海戦で世界を驚かせる勝利を収めます。肉じゃが発祥の逸話が舞鶴を舞台とするなら、それはこのわずか2年ほどの在任期間中の出来事だったということになります。

肉じゃがの黄金比と失敗しない作り方のコツ

肉じゃがの基本的な材料は、じゃがいも、牛肉または豚肉の薄切り、玉ねぎ、にんじん、好みでしらたきや絹さやを加えるというシンプルな構成です。煮汁には水またはだし汁をベースに、酒、砂糖、醤油を合わせるのが定番で、プロの料理人の間では醤油2、みりん2、砂糖1、あるいは砂糖1、酒2、醤油3といった配合が語られることもあります。美味しく仕上げるコツは、具材を油で軽く炒めてから煮ることでコクを出すこと、じゃがいもは煮崩れを防ぐために加熱しすぎないこと、強火で一気に煮立たせるのではなく弱火でじっくりと味を含ませることです。じゃがいもの品種については、ほっくりとした食感を楽しみたい場合は男爵薯、煮崩れしにくい仕上がりを求める場合はメークインが向いているとされ、この違いは舞鶴と呉それぞれのご当地肉じゃがが異なる品種を採用している点とも重なります。

肉じゃがについてよくある疑問に答える

肉じゃがの発祥の地はどこかという疑問には、舞鶴と呉のどちらとも断定できないというのが実情です。両市がそれぞれ独自の根拠をもとに公式宣言を出しており、公的に優劣が決着しているわけではありません。東郷平八郎が本当に肉じゃがを発案したのかという疑問についても、明治24年の海軍規則にすでにビーフシチューの調理法が記載されていたことから、史実というより後年に整えられた物語である可能性が高いという答えになります。肉じゃがとカレーライスの関係については、どちらも海軍が全国普及の一翼を担った料理とされており、艦上食として親しまれたメニューが除隊兵士を通じて各地の家庭に広まったという共通点があります。肉じゃがが家庭料理として選ばれる理由については、調味料メーカーなどの調査で「わが家の代表的な家庭料理」の第1位に選ばれるほど支持が厚く、隠し味の工夫次第で家庭ごとの味わいが生まれる懐の深さが理由の一つに挙げられます。

東郷平八郎には丁字戦法やZ旗など他の逸話も数多く残っている

肉じゃが以外にも、東郷平八郎にまつわる逸話は数多く残されています。日本海海戦で採用された丁字戦法、いわゆる「東郷ターン」は、敵前で艦隊を大きく旋回させる危険な戦術でありながら成功させたことで、東郷は世界的な名声を得ました。この海戦に際して連合艦隊旗艦「三笠」に掲げられたZ旗には、「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」という信号文が込められており、東郷の指揮官としての覚悟を象徴する逸話として語り継がれています。

勝利の後、東郷が口にしたとされる「勝って兜の緒を締めよ」という言葉は、慢心を戒める教訓として広く知られ、彼の謙虚な人柄を象徴するものとして紹介されることが多い言葉です。東郷は戦後も驕ることなく質素な生活を続けたと伝えられており、こうした人物像が国民からの厚い尊敬につながったといえます。日露戦争後には多くの国の軍事関係者が東郷の戦術や人柄を研究の対象とし、世界的なニュース雑誌「TIME」の表紙を日本人として初めて飾った人物も東郷平八郎であるとされています。1913年には元帥となり、1926年には勲章の最高位である大勲位菊花章頸飾を受章し、1934年に咽頭癌のため86歳で死去しました。

肉じゃがと東郷平八郎の逸話が現在まで語り継がれている理由

肉じゃがと東郷平八郎を結び付ける逸話は、イギリス留学中に食べたビーフシチューを艦上食として再現させようとしたところ、材料の違いから醤油ベースの和風煮物になった、という筋書きで広く知られています。この逸話には舞鶴を舞台とするものと呉を舞台とするものの二つのバージョンが存在し、両市はそれぞれ「肉じゃが発祥の地」を公式に宣言し、現在もその立場を維持しています。舞鶴説は平成7年に結成された「まいづる肉じゃがまつり実行委員会」による町おこし活動を通じて全国に広まり、呉説も平成9年結成の「呉肉じゃがクラブ」による活動を経て平成10年に正式宣言されました。

一方で史料を丹念に検証すると、東郷が舞鶴に赴任する以前の明治24年の時点で、すでに海軍の教育規則にビーフシチューの調理法が記載されていたことが確認されており、東郷平八郎が肉じゃがを発案したとする逸話については、史実というより町おこしのために整えられた創作的な物語である可能性が高いといえます。とはいえ、肉じゃがが日本海軍という組織を通じて西洋料理を和風にアレンジしながら形作られ、除隊した兵士たちの手によって全国の家庭へと伝播していったという大きな流れそのものには、一定の説得力があります。昭和40年代以降、女性誌などを通じて「肉じゃが」という料理名とともに家庭に広く定着し、今日では「わが家の代表的な家庭料理」の第1位に選ばれるほどの地位を確立するに至りました。

舞鶴と呉では現在も、肉じゃがを観光資源や食文化資源として活用する動きが続いています。飲食店では「元祖肉じゃが」を謳ったメニューが提供され、土産物として肉じゃがのレトルトパックが販売されるなど、家庭料理の枠を超えて地域ブランドとしての価値も生み出されています。東郷平八郎という一人の海軍軍人の名前が、130年近い時を経てなお地域おこしと国民食のストーリーテリングの中心に位置づけられている点は、この逸話が持つ物語としての強さを示しているといえるでしょう。舞鶴と呉、どちらの主張がより史実に近いのかを断定することは難しいものの、この逸話が今なお多くの人々の関心を集め、地域の食文化を豊かに彩り続けていることは間違いのない事実です。

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