割り勘の語源は江戸時代にあった!正式名称や酒代の歴史を解説

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飲み会のあと、「じゃあ割り勘で」——。この一言、もう何百回と口にしてきたと思います。PayPayで送金したり、幹事がまとめて払って後から集めたり、やり方は変わっても「みんなで均等に払う」という感覚は、もはや日本人のDNAに刻まれているレベルですよね。

でもふと考えると、不思議じゃないですか? 世界を見渡すと、割り勘って実はかなり珍しい文化なんです。中国では誘った人が全額おごるのが当たり前だし、ロシアでは「割り勘を提案した男とは二度と口をきかない」という女性もいるとか。私もこれを知ったとき、「え、日本だけ?」とちょっと驚きました。

そこから「そもそも割り勘って誰が始めたんだろう」と気になって調べてみたら、考案者は江戸時代のベストセラー作家。しかもこの人、本を書くだけじゃなく煙草入れのブランドまで立ち上げた”商売上手”で、友人との飲み会でも頭数できっちり割って払っていたことから、当時は「京伝勘定」なんて呼ばれていたそうなんです。

この記事では、「割り勘」の正式名称や語源はもちろん、江戸時代の居酒屋の酒代がいくらだったのか、お銚子1本いまの値段でいくらだったのかまで、ディープに掘り下げていきます。次の飲み会で「割り勘って実はさ……」と語れるネタが、きっと見つかりますよ。

割り勘の語源は、江戸時代に生まれた「割り前勘定(わりまえかんじょう)」という言葉にあります。江戸時代の戯作者・山東京伝が友人との飲み会で代金を頭数で計算する方法を考案したことが、現在の割り勘の起源とされています。当時の江戸は「飲み倒れ」と言われるほど酒好きの街で、居酒屋ではお銚子1本が約360円、酒の肴は1品約240円からという価格で提供されていました。

この記事では、割り勘という言葉の正式名称や語源から、それを考案したとされる山東京伝という人物、さらには江戸時代の酒文化や酒代の実態まで詳しく解説します。普段何気なく使っている「割り勘」という言葉の背景には、日本の長い歴史と独自の文化が息づいています。現代ではキャッシュレス決済を使った新しい形の割り勘も登場していますが、「みんなで公平に支払う」という精神は江戸時代から変わることなく受け継がれているのです。

目次

割り勘とは何か 正式名称と語源の意味

割り勘という言葉は、実は略語であり、正式名称は「割り前勘定」といいます。この「割り前」という言葉には「それぞれに割り当てた額」という意味があります。「一人前」が一人分の量を表し、「分け前」がそれぞれに割り当てた量を表すのと同様に、「割り前」とはそれぞれに割り当てた金額を指しているのです。そして「勘定」は数を数えること、または支払いをすることを意味する言葉です。

つまり「割り前勘定」とは、支払いをそれぞれに割り当てて行うこと、各人が等分に負担金を出し合って支払いをすることを意味しています。現代では当たり前のように使われているこの支払い方法ですが、その概念が言葉として定着するまでには長い歴史がありました。

日本国語大辞典の記録によれば、均等割を意味する「割り前」という言葉の初出は1737年(元文2年)とされています。その後、割り勘を意味する「割り前」が登場したのが1860年(万延元年)、そして「割り前勘定」という言葉の初出が1867年(慶応3年)でした。さらにその略語である「割勘」の初出は1925年(大正14年)とされており、私たちが現在使っている「割り勘」という略称が一般的になったのは、実は大正時代末期以降のことなのです。

このように、割り勘という概念自体は江戸時代中期から存在していましたが、現在使われている「割り勘」という呼び方が定着したのは比較的最近のことだったといえます。

割り勘を考案した人物 江戸時代の戯作者・山東京伝

日本では、割り前勘定(割り勘)を考案したのは江戸時代の戯作者・山東京伝(さんとう きょうでん)だと言われています。山東京伝は、宝暦11年8月15日(1761年9月13日)に質屋を営む岩瀬伝左衛門の長男として生まれました。本名は岩瀬醒(さむる)、通称は京屋伝蔵といい、「江戸城紅葉山の東に住む京屋の伝蔵」ということから、「山東京伝」という筆名をつけたと言われています。

京伝は浮世絵師としても活躍しており、画号は北尾政演(まさのぶ)でした。18歳で画家としてデビューし、20歳頃から黄表紙と呼ばれる絵入り読み物を書き始めます。1782年刊の「御存知商売物」1785年刊の「江戸生艶気樺焼」といった黄表紙は大評判を得て、京伝は一流作家として名を馳せるようになりました。大田南畝にも評価され、花形作家となった京伝は、黄表紙、合巻、洒落本、読本など様々な文学ジャンルで活躍したほか、考証随筆の著作も残しています。

しかし1791年(寛政3年)、風俗を乱す本を取り締まる出版物取締令に触れてしまい、手錠をかけたまま50日間生活させる「手鎖の刑」に処せられました。この処分の後、京伝は江戸京橋の南(現在の銀座一丁目付近)に紙製煙草入れ店を開きました。彼がデザインした煙草入れは大流行し、江戸の有名ブランド店として大繁盛しました。つまり京伝は、作家・画家としてだけでなく、商売人としても成功した人物だったのです。

そんな商売上手で金銭勘定に細かかったとされる京伝は、友人との飲み会の最中でも頭数で代金を計算していたことから、当時「京伝勘定」とも呼ばれていました。当時、仲間と飲食するときの支払いは、代表者が総額を支払うことが一般的でした。しかし京伝は、総額を参会者の人数で割って支払う方法を考案したのです。これが現在の「割り勘」の起源とされています。

1816年(文化13年)9月7日、京伝は胸痛の発作を起こし、56歳でこの世を去りました。現在、両国回向院に、同じく戯作者であった実弟の山東京山とともに眠っています。

江戸時代の酒文化と居酒屋の誕生

江戸時代は、日本の酒文化が大きく発展した時代でした。「京の着倒れ、大坂の食い倒れ、江戸の飲み倒れ」と言われるほど、江戸は”呑んべえ”の街だったのです。現在一般に愛飲されている清酒は、室町時代の終わり頃から江戸時代初頭くらいの間に生まれたとされ、江戸時代に一般へ広まりました。それまでは現在のどぶろくのような濁り酒で、アルコール濃度も大分低かったのです。

居酒屋という業態が誕生したのも江戸時代のことです。江戸時代の始め頃、お酒はお店で飲むのではなく、酒屋さんでお酒を買って自宅で飲んでいました。酒屋さんで大きな徳利にお酒を注いでもらう形の「量り売り」で、お酒を買っていたという記録が残っています。

しかし、そのうちに買ったお酒を店頭で飲み始めるお客さんが出てきました。酒を買って家まで待ちきれない人や、徳利を戻しに来るのが面倒という人などが多かったのでしょう。お客さんが酒屋さんに居座ってお酒を飲み続けるということから、「居酒屋」という言葉ができたのです。店に「居」ながら酒を飲むということで「居酒(いざけ)」と呼ぶようになり、これが居酒屋のルーツとなりました。

居酒屋のルーツと言われるのが、1596年(慶長元年)創業の豊島屋本店です。東京最古の酒舗兼立ち飲み居酒屋として歴史を紡いできました。鎌倉河岸にあった豊島屋では労働者相手に酒だけでなく、つまみとして豆腐田楽を売り出しました。ここの田楽は大きいことで知られ、1本2文(現代の価値で約60円)と安かったので好評を博しました。

享保年間(1716年から1735年)になると、店先で酒を飲ませる酒店が各地に現れ、大変な評判になりました。最初の頃はみんな立ち飲みで、料理などのあても無く、ただお酒をひたすら飲んでいただけでしたが、やがてだんだんお酒とともに簡単なおつまみを出す「煮売り居酒屋」が登場し始めました。

居酒屋の発展には、明暦3年(1657年)に起こった「明暦の大火」も関係しています。この大火事で江戸市中の大半が燃えてしまい、復興のための工事に多くの人足が集められました。この人々の食事の需要を当て込んで「煮売茶屋(にうりちゃや)」と呼ばれるお惣菜屋、定食屋が生まれます。やがてこの煮売茶屋でも酒を提供し始めるようになりました。

酒がメインの「居酒屋」と料理がメインの「煮売茶屋」が互いにサービス競争を重ねるうちに、それぞれが料理とお酒の双方に力を入れるようになり、こうして江戸の町には料理とお酒を楽しむための居酒屋が軒を連ねるようになったのです。

江戸時代の酒代はいくらだったのか 物価から見る当時の飲み代

江戸時代の酒の値段はどのくらいだったのでしょうか。文化・文政年間(1804年から1830年)を基準にすると、当時の貨幣換算では1両が銀60匁、銭4000文でした。当時そば1杯が16文だったことから、現代の価値に換算して1文を約30円、金1両を約12万円と計算されています。

居酒屋でのお酒はお銚子1本で12文(約360円)くらいでした。文化7年(1810年)では、にごり酒1合が4文で飲めたという記録があり、これは現代の約120円程度となります。酒屋での販売価格を見てみると、「江戸買物獨案内」という当時のチラシには、様々な銘柄と一升分の価格が載っていました。金1両を現在の10万円として換算すると、安い酒は約4,500円、九年酒(熟成酒)は約17,000円、もっとも高い砂糖あわもりは約33,000円という価格で売られていたと考えられます。

居酒屋での肴(おつまみ)は1品8文(約240円)くらいからとお手頃価格でしたが、酒は文化・文政期で1合20文(約600円)から32文(約960円)と、現代の感覚で考えると少し高めでした。

他の物価と比較すると、お豆腐は1丁12文で約360円、お蕎麦は1杯16文で約480円でした。鰻丼は1杯100文で約3,000円、お寿司はひとつで60文で約1,800円もするものもあり、これらは庶民にはなかなか手が出せなかったとされています。

品目江戸時代の価格現代換算
お銚子1本12文約360円
にごり酒1合4文約120円
酒の肴1品8文〜約240円〜
清酒1合20〜32文約600〜960円
お豆腐1丁12文約360円
お蕎麦1杯16文約480円
鰻丼1杯100文約3,000円
お寿司1つ60文約1,800円

19世紀前半、江戸市民は毎年90万樽超の酒を飲んでいました。当時の江戸の人口100万人で割ると、1人あたり1日155ミリリットルの酒を飲んでいた計算になります。江戸時代は1人あたり年間54リットルの酒を飲んでいたと言われており、これは現代の日本人の平均飲酒量をも上回る数字です。

1811年に行われた調査では、江戸の町には1808軒の居酒屋があり、業種別で一番多かったそうです。当時の江戸の人口100万人で計算すると、553人に1軒の割合で居酒屋が存在していたことになります。

江戸時代の居酒屋の様子と宴会文化

江戸の町は男性の割合が8割近い超男性社会で、居酒屋に集まる人たちも男性が多かったようです。当時の居酒屋は早朝から酒と料理を提供しており、駕籠かきや棒手振り、奉公人や職人などが集っていました。

居酒屋の店内には実際には椅子と机がなく、土間に置かれた床几(しょうぎ)に腰を掛け、膝の上や傍らに酒や料理を置く不自然な態勢だったため、長居はできなかったようです。現代の立ち飲み屋の原型とも言えるでしょう。

江戸で飲まれていた酒の多くは「下り酒」の諸白でした。諸白とは、仕込み用の掛米(蒸米)と麹米の両方に精白米を用いて造られた清酒をいい、16世紀の中頃に奈良で生まれました。江戸時代中期以降、海運の発達によって物資の国内流通が大幅に発展した結果、兵庫・灘や京都・伏見の地酒を江戸の市中で飲むことができるようになりました。

小料理屋よりも高級になるのが料理茶屋(現在の料亭)でした。部屋の真ん中の畳の上に料理を置いて、出席者が囲むように座りました。宴会中には仲居さんが料理をとってくれたり、三味線を演奏してくれたりするサービスもあり、個室もあったので周りを気にせずゆっくりと酒を飲みながら語らうことができました。

江戸時代には様々な宴会の形式がありました。忘年会の起源は鎌倉時代の「年忘れ」という会とされていますが、現在の忘年会のような形になっていった起源は江戸時代にあり、庶民の間にお酒を酌み交わしながら行う「年忘れ宴会」が広がりました。武士たちは年忘れ宴会ではなく、年が明けてから新年会のような会を開いていたとされています。

「無礼講」という言葉も江戸時代から使われていました。無礼講とは、地位や身分の上下を取り払い楽しむという趣旨の宴会で、日本では古代からあった概念です。江戸時代に成立した古典落語の「八五郎出世」では、無礼講だからと言われて羽目を外しすぎる人物が描写されており、現代と同様の意味で使われていました。

本膳料理という儀礼的な宴会料理も江戸時代に発展しました。室町時代に確立された武家の礼法から始まり、江戸時代には町民や農民の間でも婚礼などの祝いの席で広がりました。本膳料理は式三献から始まり、雑煮、一の膳(本膳)、二の膳、三の膳、硯蓋などおおよそ6種類の順で供されました。

江戸時代の酒の種類と人気銘柄

江戸時代に飲まれていた酒にはどのような種類があったのでしょうか。昔の日本酒は現在のように透き通ったお酒ではなく、濁った、いわゆる「どぶろく」が一般的でした。今でいう清酒「すみ酒」は神事や一部の上流階級への贈答品などで使用されていました。

清酒の発明は室町時代に奈良の僧坊で造られた南部諸白(もろはく)がはじめといわれます。それまでは麹造りに玄米を使用した片白(かたはく)で、濁り酒に近い酒でした。南部諸白は、麹米と仕込み用の掛け米の両方を精白したので諸白(双白)と呼ばれました。

江戸近辺で造られた酒は醸造技術がまだ進んでおらず、濁酒に近いものでした。そこで、上方で洗練された諸白(清酒)が生産され、この酒が江戸に送られて大いにもてはやされました。これが「下り酒」と呼ばれるものです。

江戸時代中期には「名酒づくし」という、下り酒として人気があった池田・伊丹・西宮・灘などで造られる名酒のランキングが作られていました。横綱に相当する中央の上段には「九年酒大和屋又」、下段には「味醂大和屋太」が大きく書かれ、東の大関に「坂上の剣菱」、西の大関に「山本の老松」が選ばれていました。東の関脇「山本の男山」、西の関脇「小西の志ら菊」と続き、総計134蔵の銘柄と蔵の名前が載っていました。

文政年間(1818年から1829年)に出された「江戸買物獨案内」という当時のチラシには、「大國酒」「布袋酒」「明乃鶴」など、目玉商品が大きく書かれているほか、清酒や焼酎、梅酒、保命酒、味醂など、様々な酒類とその価格が記載されていました。

近現代日本酒の最大の産地である兵庫県の灘五郷は、江戸時代に形成されました。元禄年間、町人文化が栄えたことで日本酒の消費量が急増し、大量の樽酒が江戸に出荷されました。江戸で飲まれていた酒の80パーセントは灘五郷のものだったと言われています。現在の白鶴、大関、日本盛、菊正宗、剣菱、沢の鶴など、大手酒造メーカーの多くは灘五郷発祥の蔵元です。

最後まで主役の座につけなかった江戸の地酒には、墨田川、宮戸川、都鳥、龍水などがありました。関東の酒の産地としては武蔵、日立、下総、鬼怒川筋、荒川筋などがありましたが、上方の酒には及びませんでした。

この時代、3年、5年、9年と熟成させた古酒は贅沢品でしたが、その美味しさは庶民にも知られていました。九年酒の価格は一般的な清酒の2倍以上で、現在の貨幣価値で約17,000円という高級品でした。

庶民の暮らしと酒 江戸っ子の飲酒事情

江戸では、日雇い、棒手振りなど、手に技術や経験がなくてもすぐに始められる仕事がありました。貯蓄できるほどのゆとりはないものの、まじめに働いてさえいれば、男性の一人暮らしの場合、酒を飲むくらいの金は捻出できました。

江戸時代の人たちはとにかくお酒が好きで、朝起きて飲み、昼にも飲み、夜にも飲むといったことも珍しくなく、仕事中でも関係なくお酒を飲んでいたそうです。現代では考えられないことですが、当時はそれが普通のことでした。

酒の肴としては田楽が出されていました。やがて田楽はおでんに発展し、江戸の町にはおでん・燗酒売りの姿がみられるようになりました。冬の寒い日に熱燗とおでんという組み合わせは、江戸時代から続く日本の食文化なのです。

割り勘と同じ意味の「兵隊勘定」とは

割り勘と同じ意味で使われていた言葉に「兵隊勘定」があります。これは明治時代、日露戦争(1904年から1905年)の頃に流行した呼び方です。

広辞苑には「兵隊勘定」という項目が存在し、説明文には「数人で飲食した代金を各自均等に負担して支払うこと。わりかん」とあります。日本国語大辞典では、兵隊勘定の略称として「兵隊」という言葉まで載せており、「割り勘にしよう」と言う場面で「兵隊勘定にしよう」や「兵隊にしよう」という表現も可能でした。

なぜ「兵隊」が「割り前」と同じ意味で使われたのかには諸説あります。ひとつは「明日は戦場で生死も定かではないから、同じ兵隊同士、貸し借り無しに均等に負担する」という考え方から来たという説です。戦争で死ぬ可能性を考えて貸し借りをしないように考えたというわけです。もうひとつは、兵隊が足並みをそろえて同じように振る舞う様子から派生したという説もあります。

「兵隊勘定」は明治から昭和初期にかけて使われていた言葉で、現在ではほぼ使われなくなっていますが、辞書には今でも残っています。大正末期から昭和初期に生まれた世代にとっては、この表現は一般的であったようです。

割り勘と折半の違い 使い分けのポイント

割り勘とよく似た言葉に「折半(せっぱん)」があります。この二つは同じ意味で使われることもありますが、厳密には違いがあります。

割り勘は「2人以上で飲食代金を人数割りにすること」で、「人数割り」と言い換えると分かりやすいです。複数の人数で勘定を支払うことを指し、何人でも使うことができます。

一方、折半は「金銭などを半分ずつに分けること」という意味があります。金銭や利益などを二者間で半分に分けることを表すときによく使われ、基本的には2人の場合に使います。

また、割り勘は主に飲食代などの「勘定」に対して使われる言葉で、カジュアルな場面向きです。折半は金銭・費用・利益など幅広い対象に使うことができ、フォーマルな場面でも使える表現です。

たとえば月々の食費などの場合は「勘定」ではなく「予算」「費用」ですから、割り勘とは言わず、折半が正解となります。2人で飲食代を支払う場合などは、割り勘と折半のどちらを使っても同じ意味になります。

項目割り勘折半
意味人数で等分に割って支払う半分ずつに分ける
人数2人以上(何人でも可)基本的に2人
対象主に飲食代(勘定)金銭・費用・利益など幅広い
場面カジュアルフォーマルでも使える

英語での割り勘の表現 なぜ「Dutch」なのか

英語圏では割り勘を表す言葉として「Dutch account(オランダ式の会計)」「Dutch treat(オランダ人のおごり)」「Go Dutch(オランダ式でいく)」が使われています。

なぜオランダ人なのかというと、これには17世紀後半にイギリスとオランダが3度にわたり戦った英蘭戦争の影響があります。この戦争の結果、イギリス人の対オランダ感情が悪化し、英語におけるDutchの扱いに影響を与えました。大航海時代に、イギリス人がオランダ人にケチのイメージを定着させようとしてこう呼んだのが起源とされています。

「Dutch」という言葉自体は、もともとドイツ語のDeutschと同じで、「人々の」を意味するゲルマン祖語から来ています。イギリスは当時、今のオランダ・ドイツにいる民族のことをまとめて「Dutch」と呼んでいました。オランダが独立し頭角を現すと、イギリスのライバルとなり「Dutch(ダッチ)」という呼び方がオランダに定着するようになりました。

英語にはDutchを使った表現が数え切れないほどあり、go DutchやDutch treatを含めて、ほとんどがオランダ人にとってひどい内容の表現です。現代では割り勘を表すのに「Let’s split」などと使う方が一般的になっています。Dutchを含む表現はイギリスとオランダが戦争をしていた歴史的背景があり、ネガティブなイメージがつきまとう言葉だからです。

日本の割り勘文化の特徴 世界でも珍しい支払い方法

「日本人ほど割り勘好きな国民はいない」と言われるほど、日本では割り勘が広く普及しています。「割り勘」という文化は世界的に見ても珍しく、一般的な支払方法として行われている国は非常にまれです。そもそも「割り勘」という言葉自体が普通に存在すること自体がとても珍しいとされています。

日本人が割り勘を好む理由としては、「相手に気を遣わせたくない」「貸し借りを作りたくない」「対等な関係でいたい」「揉めたくない」など、日本人特有の国民性が挙げられます。無意識な上下関係を生み出さないよう、あえて割り勘にしている人も珍しくありません。割り勘は日本の「事なかれ主義」が生んだ偶然の産物なのかもしれないとも言われています。

エスニックジョークとしても、日本人の見分け方に「食事の後に計算機で支払い金額を計算して割り勘で支払うのが日本人」というものがあり、「割り勘」が日本での普及が高く、他の地域では普及していないことをうかがわせます。

海外の支払い文化との比較 割り勘がない国も

「割り勘」の概念が存在しない国、または直接的に「割り勘」を指す単語や成句が存在せずに「分割」「共有」の意味の語を当てはめている国もあり、世界的に見れば、代表者1名が全額支払うことのほうが多いです。

中国では、食事に招いた人が全額支払うのが一般的で、割り勘を申し出ることは相手を侮辱する行為となることもあります。2018年の記事で日本の割り勘が紹介された際、中国人からすると「ケチ」に感じるという声がある一方、全員が同じ金額を支払い、全員が同じものを食べ、全員が対等に話ができる点を利点としているという見方もありました。

韓国では、食事に誘った人、または年配の人が全額支払うことが多いです。近年は若い世代を中心に割り勘(韓国語では「エヌパン」、N分の1の意味)が浸透してきていますが、男女間のデートの際には男性側が支払うことが圧倒的に多いです。

アメリカでは一人一皿が基本で、自分のお皿に盛られたものを食べるのが常識です。シェアするという考え方は一般的ではなく、お皿を皆でつつくのは行儀が悪いと教育する家庭も一般的です。支払いはクレジットカード払いが一般的で、日本のように現金を出し合うことはあまりありません。

アフリカのマリでは「割り勘はないので、日本でびっくりした。マリでは誰かが払う。いつも違う人が払う」という声もあります。ギリシャでは「デートなら女性は絶対払わない。大体、誘う人イコール払う人」、ロシアでは「特にデートでは、割り勘を提案した男性とは二度と口を利かない女性もいる」とされています。

現代の割り勘とキャッシュレス化による変化

江戸時代に生まれた割り勘という文化は、現代においても引き継がれていますが、その方法は大きく変化しています。特にキャッシュレス決済の普及により、割り勘の方法も多様化しています。

全国の20代から60代の男女を対象にした調査によると、「食事の割り勘をした際、立て替えてくれた人にはどのようにお金を渡しますか」という質問に対し、最も多かった回答は「現金で渡す」で86.6パーセントでした。次いで「決済アプリに送金する」が19.4パーセント、「銀行口座に振り込む」が8.2パーセントという結果になりました。

キャッシュレスを利用したことがある人は25.4パーセントで、割り勘にキャッシュレスを使った理由としては「支払いまでの流れをスムーズにしたかったから」が最も多く45.1パーセント、「計算する手間を省きたかったから」が33.5パーセントでした。

キャッシュレス割り勘の決済方法を聞いたところ、PayPayで個別に送金・受取が34.1パーセントで最も多く、次いでPayPayのわりかん機能が18.9パーセント、LINE Payの割り勘が13.4パーセントという使用状況でした。PayPayは2024年10月時点で登録ユーザーは6,600万人を突破しており、この圧倒的なユーザー数と個人間送金機能の相性が良いとされています。

スマートフォンの送金・割り勘機能には多くのメリットがあります。現金を回収する時のようにおつりを準備する必要がない、先に帰るなど会計時にいない人からも回収しやすい、アプリに記録が残るので支払っていない人がすぐにわかる、相手に口座番号等を知らせなくても送金してもらうことができるといった点が挙げられます。

近年では、異なる銀行への振り込みでも手数料がかからないサービスが登場していたり、メッセージアプリにURLを送る形で送金できたりと、送金手段も多岐にわたっています。決済アプリの中には個人間送金の手数料がかからないものもあるため、今後は個人間でも決済アプリでお金のやりとりをするという文化が普及していくかもしれません。

江戸時代から続く割り勘の精神

江戸時代に山東京伝が考案したとされる割り勘は、現金からキャッシュレスへと形を変えながらも、「みんなで公平に支払う」という精神は現代にも受け継がれています。

割り勘の正式名称は「割り前勘定」であり、その語源は江戸時代にまで遡ります。商売上手で金銭勘定に細かかった山東京伝が、友人との飲み会で頭数で代金を計算する方法を編み出したことが始まりでした。「京の着倒れ、大坂の食い倒れ、江戸の飲み倒れ」と言われるほど酒好きだった江戸時代の人々は、お銚子1本約360円、肴1品約240円からという価格の居酒屋に集い、酒を楽しんでいました。

明治時代には「兵隊勘定」という言葉も生まれ、大正時代末期からは「割り勘」という略称が一般的になりました。世界的に見ても「割り勘」という概念が定着している国は珍しく、これは「相手に気を遣わせたくない」「対等な関係でいたい」という日本人特有の国民性を反映しているとも言えます。

現代では当たり前のように使われている「割り勘」という言葉ですが、その背景には日本の長い歴史と文化が息づいています。居酒屋で友人と飲み、最後に「今日は割り勘で」と言うその瞬間、私たちは260年以上前の江戸時代から続く日本独自の支払い文化を、無意識のうちに受け継いでいるのです。

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